三国志:魏延って、なぜ反逆者扱いされてるんですか?
孔明と仲が悪かっただけなのに・・・劉備には忠義を尽くしてましたよね。。。
ちなみに、魏延が言ってた、「自分が長安への間道を突き、孔明は正面から長安に当たって自分と合流」という策を
孔明が受け入れ、実行していたらどうなったと思いますか?
実際の孔明は軍事よりは内政向きだったらしいから、魏延に任せてもよかったんじゃないかな?って思います。
皆さんはどう思いますか?
(´・ω・`)/魏延が反逆者扱いされるのはほぼ演義が原因です。
魏延にとって一番致命傷なのは劉備の死にあります。一番の理解者ですから。
劉備は魏延を高く評価し、漢中をまかせた程です。
思うに孔明は魏延に指揮下から抜けられると、作戦をまかせるに足りる将がいなくなることを
恐れていたのではないかと・・・(( ’Д`)それとも本気で裏切ると思っていたのか?)
個人的な見解としては、漢中をまかされていた魏延には遊軍として動く自信と根拠があり、自由にさせれば、
ましてや街亭の時、彼を用いていれば、孔明の死・直後に魏延に北伐の指揮権をゆだねていれば、
もっと有利な展開を出来たと思います。
確かに三顧の礼が悲劇の始まりともいえます。
彼の人事センスこそが蜀漢の滅亡を招いたといえなくもないので。
たとえば主将を魏延、副将を王平、軍師に法正(生きてれば)の編成をしてれば
やっていけたのかな、と。
歴史は結果論です。当事者以外の者が記録し、もっともな意見(意味)をつけます。
結果=魏延は味方に殺された。蜀を正当化するなら、味方に殺された者は裏切り者でなければならない。では、どこまでその理由を捜しに遡るか?近くになければ、遠く=出会った時にすればいい。それを見抜いていたのが孔明だけにすれば、より神格化出来るではないか……。平成にだって解らない歴史の闇があるのですから、現実と歴史が全く違う事もあるのではないでしょうか?仲が悪かったって、二人が言ったわけではないですしね(笑)
魏延は撤退を拒んだが付き従う人物はなく、最後には兵卒にも見放されるありさま。
孔明の後継の指揮官として、選挙で選ばれたわけでも、劉禅に任命されたわけでも、
孔明に指名されたわけでもない(少なくとも記録には無い)。勝手に指揮権を奪おうとしただけ。
それで軍規を乱して討たれたのだから、それを反逆者と呼ぶのは不思議なことだろうか。
もちろん孔明の死後に自分と険悪な関係の楊儀が後継者になるのが濃厚な状況で、
粛清されることを危惧した自衛行為だと弁護する余地はある。そう考えると
魏延の立場はむしろ孔明によって保証されていたという言い方もできなくは無い。
三国志を読む限りでは、孔明はなぜか魏延が嫌いで、何かと難癖をつけていますよね。
魏延が劉備に帰順を申し出たときも、反骨の相ありなどと難癖をつけていますし。
三国志演義は孔明中心主義ですので、必然的に魏延は悪者にされるんでしょね。
歴史書によると孔明には軍事を司る力が欠けていました。
軍の上将軍の巍延が軍事専門外の孔明に命令されては良い気がしません。
ましてや孔明は無駄な軍事行動で国を疲弊させています。
自国の四倍ある国を攻めるのですから国民の生活は困窮を強いられます。
反逆理由は自分が指揮を執って戦を終わらせ民に平和な生活を戻したかったのだと思います
巍延は奴隷出身で孔明は気ままに暮らしていたニートです。
巍延の方が民の気持ちを理解していたと思います
三国志演義の反骨の相が原因です。(孔明の発言は正しいとされる為)
実際は、反逆の意思は無く不仲の楊儀にハメラレタのが事実です。
魏延は無罪です。
蜀漢最大の悲劇は、「三顧の礼」で孔明を迎えたことでした。
①「隗より始めよ」の故事に倣って、無名な「孔明」を「三顧の礼」をもって迎える劉備であれば、自分なら・・・その演出によって孔明以上の軍師「庖統」を手に入れることに成功した劉備軍は破竹の勢いで蜀を征服。しかし庖統の死後一時的に「法正」が代役になったが(孔明自身、法正が生きていれば呉討伐はとめられたと言ってる)最終的に、政治・行政能力の高い孔明が主導権を握ってしまったこと。本来であれば、行政官としてNo6程度の地位で活躍させれば十分であったのに。
②関羽という、自意識過剰のNo2が勝手に暴走を始めたこと。美髯でナルシスト、春秋左伝を読んだ程度の三流将軍(人斬りとしては超一流)が出来もしない討伐に現を抜かし、呉下の阿蒙の策略にハマって敗死。荊州という重要拠点を失い、呉との関係も悪化。
③張飛というNo3が、関羽の死後感情の赴くまま暴走を始めたこと。演技では力ばっかりで頭パーっぽく描かれてますが、張飛はそこそこ優秀な将軍でした。義兄弟でNo1~3までの、船場吉兆のような同族に近い国家だった蜀はこれで崩壊。張飛の死後、No1の劉備が突っ走り、せっかくそろえた貴重な頭脳派「馬良」「黄権」等を失う結果、孔明の台頭を許してしまった。
④元々の劉備の配下、関羽・張飛・趙雲等は、武人としては優秀でも、将軍としては3流以下。せっかく2流の「魏延」は孔明と同じ外様も同然。軍部では魏延優位でも、朝廷内では孔明優位。無謀にも派閥争いを起こし負けた魏延を裏切り者にしないと、孔明の独裁が確立できなかったというのが真実でしょう。
当然派閥争いですから、魏延に手柄は立てさせたくない。孔明は自分がNo1になりたいから、魏延を退けたんです。あれほど軍事の下手な人はいません。勝つのはいつも「待ち伏せ」←これしか知らないんです。
菅仲・樂毅にたとえるほどの存在ではないよ。
「三国演義」の”演出的技法”からいえば、北伐時の孔明がパッとしないから、悪役と対比させて、結果が出ない責任をおっかぶせたためです。
魏延は確かに孔明死後、楊儀と孔明死後の権力をめぐって争い破れ、「謀反人」として殺されているという、歴史的結果があります。
「演義」の著者はそういう結果を踏まえ、かなり先に「伏線」を張るクセがあるんです。劉備の養子・劉封が関羽に援助せず、関羽が呉につかまるという結果を踏まえて、養子縁組するとき(新野時代)に関羽が「なぜあんな奴を息子にするのか!」とケチをつけさせたりする。
孔明と魏延が、それほど親しくなかったのは事実でしょうし、文官出身の宰相と武官で意見が食い違うのはよくあること。だからと言って、憎み合うほど不仲でもなかったでしょう。孔明在世中、魏延が命令無視したりするのはフィクションですよ。
先帝・劉備は、魏延を高く買っていました。漢中を攻略後、漢中太守には張飛が任命されると誰もが思っていたのに、魏延が任命されたのです。先帝の考えを知っている孔明がそう冷遇するとも、思えないですね。
さて、長安攻略戦略ですが、軍事史家の一致した意見で「魏延が正しい」といわれています。5回とも6回とも言われる北伐で、最高に勝つ可能性が高かったのは、第1回目です。敵が充分な準備をしていなかったんだから、当然ですよね。
準備が整う前に、一気に相手のして欲しくないこと・・・中心拠点を奪う・・・「ハートランド戦術」はセオリーです。目的は何か?ということです。わざわざ蜀の桟道の厳しさを乗り越え、関中まで来たのは中国第2の大都市・長安を奪うためです。
であれば、さっさとするのが一番いい。
孔明が軍事に疎い・・・といわれるのは、「兵は拙速を聞く」と言う基本が根本から分かってないからですよ。攻めが遅い。文官役人なので、どうしても準備を整え万全の形で攻めようとし、リスク・チャレンジしたがらない。成功より、失敗のダメージを怖れるからです。
最後の北伐では、魏がわは準備が不十分で、また孔明が死ぬ気で攻めてくるのを司馬仲達は怖れていました。仮に勝ててもダメージが大きいからです。そのため、渭水を渡って長安目前に布陣されたら困る・・・と思っていたら、いつもどおり長安よりはるか西方の五丈原に布陣して、祁山攻略を始めてくれたので、ホッとした・・・というエピソードもあります。
趙雲が死に、蜀には軍事指揮官がいない。それなら魏延を司令官にするというのも、ひとつの手ではあったでしょう。しかし、蜀軍最高司令官には、魏延では軽い。趙雲でも軽いです。関羽死後、そういった人材を育ててこなかった、蜀の怠慢でしょう。
仮にその作戦で長安を取れても成都(蜀の首都)からあれだけ離れた長安を治めるだけの力は蜀にはありません
治めきれない国は取らないほうがマシです
むしろだからこそ内政の得意な孔明が反対したんでしょう
とりあえず国さえ取っとけば勝てるもんじゃないんです
そもそも街亭はバショクを先陣にさせなければ(山上に布陣しなければ)勝てた可能性が高いみたいです
あの時期に蜀が攻めてくるとは魏は全くもって思ってなかったそうですから
魏延が反逆者なのは実際に反逆の罪で殺されたからです
本当は反逆しようとしてないと思いますが(陳寿にもフォローされてます)
孔明死後五丈源から撤退命令が出る→命令を聞かなかった上帰還しようとした部隊の妨害→反逆の罪に問われる
本来なら命令違反だと思うんですが・・・・妨害したせいでしょうかね
帰還妨害した理由は「今すぐ撤退したら孔明が死んだの敵にばれるだろ!」ということ
余談ですが、この孔明死後のごたごたは調べてみたら驚くほどみんな大人げないです・・・(ヨウギにしろ魏延にしろ孔明にしろ)
仮にも大変な時期なんだから仲がいい悪いは置いとけ、せめて話し合え、と思います
ちなみに演義だと本当に裏切りかけます(確か、孔明も死んだし魏にでも降ろうか・・・と考えるシーンが有る)
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