2012年3月27日火曜日

三国志演義での質問ですが、関羽の千里行の時に関羽が守護していた「劉備の子供」...

三国志演義での質問ですが、関羽の千里行の時に関羽が守護していた「劉備の子供」って誰なんでしょうか?

現在手元にあって確認できたのは横山三国志だけなのですが、劉備の子供として1名連れています。



年齢的に劉禅であることはありえませんし、魏志にしか書かれていないような娘でもないような感じです。



こいつは何者でそれからどうなったんでしょうか?







三国志等では、劉備の徐州~荊州までの期間は、

様々な部分で、没落しております。

その為、正確にはなにが正しくというのが判りません。



ですが、徐州時代に「公仲」「公然」という男の子の記述があり、

どちらかの一人は劉封です。当時の年齢で9歳位。

また、三国志を知らない作者が書いた蒼天シリーズでも男の子がいます。

器量の良い男の子として書かれています。



母とともに呂布の捕虜の身となったり、曹操の庇護を受けていた子が、

曹操にその器量に惚れ、娘婿候補になったとあります。



どちらかというのが、不明ではありますが、

それからの話は「そのまま劉封」「新野から南下中に戦死」の

2通りがありますので、2人居たかは微妙に不明です。



一緒にいる奥方は先主皇后と言われる「鴻芙蓉」だと思います。

劉封の諡号が母の姓にちなんだ「鴻太子」であり、

実子と生母の可能性が高いからです。

関羽がなぜ奥方ひとりしか連れていないのかは「正妻」だからです。



ただ、劉禅を正統化するために芙蓉姫こと縻夫人作り正妻とし、

劉禅の生母の甘夫人を側室扱いしているのがその証拠です。

正と側は入れ替わりません。



全て、井戸への身投げでリセットされています。



縻夫人については、蜀の重臣の妹なのに、情報が無いのはおかしいのです。

そして、中国では芙蓉姫という名の姫と甘夫人が仲良く描かれています。



玄徳の最初の妻は、玄徳には「奥」、配下には「奥方」とのみ呼ばれており、

本名は不明です。

劇中の描写からして縻夫人であろうと推測されているのみでしかありません。








後主伝注の魏略には劉備が小沛に居た頃の子供の記述があります。

紆余曲折を経て漢中で劉括の養子となり、後に劉備の元に戻ったとあります。



記述中ではこの人物は劉禅と書かれており、裴松之に矛盾を指摘されていますが。



実在しない可能性は高いですが、選択肢の一つとしてはこの様なものがあります。







可能性としては糜夫人との子供ってのが最も高いかなと。



そもそもあのシーンで関羽が護衛している女性は誰なんでしょ?甘夫人?糜夫人?手元に横山三国志がないので分かりませんが、演義原文では関羽は甘夫人と糜夫人両方とも連れて張飛の城へ着いています。甘夫人の長子である劉禅は207年生まれなので当然有り得ない。そして劉封も有り得ません。正史では荊州に居座ってから劉禅が生まれるまでの間、演義では劉禅が生まれた後に養子に迎えています。荊州に着く前のこの場面にはいるはずがありませんので。とすると糜夫人の子供以外は考えられません(まさか彼女ら以外の妾の子ってこともないでしょうし)。



正史先主伝では劉備は既に徐州にいるころには子供がいたことが確認できます(『妻子』が2回も捕らえられてるし)。糜夫人は子供がいたかいなかったかすら分からないんで、いた可能性も無きにしも非ず(男子であれば最低でも劉禅が生まれる前には亡くなってるけど)。曹仁伝に出てくる娘、または夭折してしまって記録が残ってない子供ってとこですかね。

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