2012年3月27日火曜日

三国志について 三国志の中に出てくる水鏡先生ことシバキが劉備にフクリュウ、ホウスウのこと...

三国志について



三国志の中に出てくる水鏡先生ことシバキが劉備にフクリュウ、ホウスウのことを



おしえたということになっていたような気がしますが

本名を教えなかったんですよね?



そのときに本名を教えていち早く劉備が孔明。ホウトウを手に入れ、ジョショが



魏に行かず劉備に従っていた場合どうなっていたんですか?



どこかの本の、反三国史みたいな感じになった可能性はあるんdねすか?







そりゃ簡単に見つけられるような安いっぽい人材じゃないんだよ、ってことじゃない。

それだけ貴重な人材なんだから苦労して自力で見つけてくださいってことです。



もちろんこの時代は人の名前を安易に呼んではいけない風習がありました。本名を口にすることは、それだけでその人の魂を縛り付けると考えられていたので、実際に本名で呼ぶことが許されるのは、両親と主君ぐらいなものです。



ゆえに司馬徽は本名を教えなかったと思います。



徐庶が魏に行かなかった場合ですけど、それなりに出世はしていたと思います(郡太守ぐらいはいける)。ただ軍略・政務の実力は史実では未知数で終わってしまったので、郡太守よりもっと上にいけたかどうかは判りませんが、史実の様に県令で終わるような不完全燃焼はしなかったかな?と思います。

ただ個人的には無頼派のイメージあるので、上座でどかっというイメージは湧かないですね。








ないですね 徐しょ ほうすう 孔明が3人がかりで戦っても魏の軍師たちにはかないません 地元 中国では孔明の評価は低いです

それに蜀と呉がフ二国がかりでもぎをたおせなかったんですから

魏は強すぎます







wikiによると名前まで教えたようですよ。wikiの情報なんで真偽は判断しかねますが。



劉備が荊州に来てから孔明を得るまで6~7年ほどの時間があります。この間いつ孔明らの話を聞いたか分かりませんが、仮に1年以内に聞いていたとするとすぐに登用しなかった理由は簡単。まだ孔明は20歳にも満たないガキだったから。ちなみに劉備は40歳越えてたぐらい。20歳そこそこのガキに自分の軍の将来を聞くなどありえないです。現代風に言えば大学中退して自由気ままに生活してるフリーターに自分の企業のアドバイスをもらうようなもの。いくら天才と評判でも簡単には信用できないでしょう。26歳で抜擢されたのも当時の感覚からすれば相当若いブレーンだったと思います。



早くから龐統や徐庶が劉備の下にいても大して影響はなかったかと。劉表は曹操を攻撃する気などなかったし、劉表死後に荊州を奪うことも劉備が同意するはずもない。曹操に包囲され殺されるのが分かりきってるから。結局孔明が判断した通り、孫権を頼り隙をついて荊州に地盤を得るというのが最善の策だったでしょう。

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