三国志で最もかわいそうな武将(文官)は誰ですか?
正史・演義なんでも構いません。その理由もお願いします。
ちなみに、私は魏延文長さんです。
人間をよく知っている劉備さんが、惚れ込んでいた将器ですよね。
「人々は重鎮の張飛が起用されるであろうと思っていたが、予想に反して劉備は魏延を督漢中・鎮遠将軍に抜擢し、漢中太守を兼務させた。劉備は群臣との会合の場で、魏延に重任を拝命する際の抱負を問うたところ、魏延は劉備に対し「曹操が天下の兵を挙げて攻め寄せて来るならば、大王のためにこれを防ぎ、配下の将軍が10万の兵でやって来るならば、これを併吞する所存でございます」と語り、劉備や群臣はその勇敢な発言に感心したという。」
また、五虎将の黄忠を助け劉備の配下に招き入れましたよね。
それに、「羌中で呉懿とともに魏の費耀・郭淮を打ち破るなどの功績を挙げている。その功績で、前軍師・征西大将軍・仮節に昇進し、南鄭侯に封じられた。」
「蜀漢軍が魏の祁山を包囲したので、祁山の包囲を解くために司馬懿が諸葛亮を、張郃が王平を攻めたが、『三国志』諸葛亮伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、諸葛亮の指揮の下で魏延・呉班・高翔が司馬懿を大いに撃退した。」・・・功績抜群じゃないですか。
だのに、人間をよく知らぬ孔明さんは(主に馬謖さんを重用したことですが)「反骨の相(頭蓋骨が後部にでていること。裏切りの象徴とされる)」があると言い、魏延を斬るように劉備に進言したり、布陣した五丈原で病に倒れると、信頼する楊儀らに自分が死んだら全軍撤退させ、魏延に殿を命じ、敵の追撃を断たせ、もし彼が命令に従わなければ、かまわず軍を進発させよと彼らに指示している。
自分以外の同僚はみんな孔明さんに言い含められて、勝手に危ない殿軍させられて。こんな事されたら誰だって怒りますよ。魏延さんは積極的な戦法が孔明さんとことごとく反発したり、ちょっと高飛車な感じがする人ですが、魏に寝返ってませんよ。イエスマンの楊儀さん小物だし、孔明さんおかしいよ。人の使い方がヘタ。劉備有っての孔明でしたね。
陸遜です。
陸遜は、優秀で忠実な人だったのですが、孫権に後継者問題で正妻との間の子を立てるべきでは?という当時としては正論を述べたところ、孫権の不興をこうむり、疑われて憤死してしまいました。後継者問題は家臣が口出しすることではないということかもしれませんが、孫権という人は、若い頃は部下の意見を取り入れることができましたが、年取ると頑固になって独りよがりになってしまったそうです。孫家は孫堅も孫策も性格が残虐なところあります。機嫌がよいときは良い人かもしれませんが。孫権も免れなかったんですね。昔の人だから、人権意識なんてないですし。
また、陸遜の子孫は、有能だったため西晋の時代にも政府に重用されていましたが、八王の乱の際、その名声を妬んだものに讒言され、無実の謀反の罪で、一族みんな処刑されてしまったそうです・・・。西晋は呉よりもおそろしい国だったんですね・・・。
張衛じゃないですか?
まず五斗米道の教祖の弟というところからイケてないですね。
天下を夢見ながらも実際には狭い世界しか知らず、自分の土地周辺を守れたから強いと勘違いしたんでしょうね。
でもそれよりも、運の悪さと、地味さが可哀そうです。
馬超を有効に使えば地味さくらいは回避できたのかも。
まぁ、それも運の無さですね。
『演義』からですが、夏侯傑なんてどうでしょう。
長坂橋で張飛の一喝にビビって落馬して死んじゃった人。
長坂の戦いではとりあえず殺されるために出てきた武将がぞろぞろいますね。
趙雲に殺された淳于導、夏侯恩、晏明、鐘縉、鐘紳など。
出てきたと思ったら趙雲を引き立てるために次々と死んでいく、可哀そうな人たちです。
魯粛です。(正史と演義の描かれ方の違い)
演義では、赤壁の戦いでは諸葛亮に利用され、荊州問題では関羽に利用され…少しひどいかも、と思います。(ついでに言えば「レッドクリフ」でもかわいそうなキャラになっていました。)
正史では、孫権に赤壁の戦いを決心させたり、荊州問題では関羽やその部下を言い負かせたり活躍してるんですけどね。
馬謖。
劉備には「あいつはホラ吹きで使えん」っていわれるし(本人はそのことを知っているかどうかは不明)、孔明には能力以上の期待をかけられて、街亭守備の大将を命じられ、結局軍令違反で斬首(本当に泣いて馬謖を斬ったのかどうかは不明)。馬謖本人も、孔明の期待に応えようとして頑張ってたのかもしれないけど、背伸びしすぎてたのかなあ。でも「自分、街亭守れます!!」ってホラ吹いちゃった点は、劉備の言った通りになっちゃったんだね。劉備の慧眼だね。
自業自得なんだけど、馬謖はちょっとかわいそうだと思うね。
反骨の相の件は演義の創作ですね。ただ謀反の意志があったかどうかは別にしても、誅殺されたのはある程度仕方ないです。撤退命令の無視という命令違反を明確に犯してるから。さらに魏延に殿を任せるのも魏延の軍事能力の高さを信頼して、と見ることも出来ます。その後の記述は本当に孔明がそんなことを言ったかどうかは甚だ疑問が残ります。仮に本当に言ったとしても魏延は孔明がその命令を出した場にはいなかったので知るはずもないですが。魏延の事件は反乱などではなく権力闘争だったというのが定説です。
かわいそうな人物は諸葛瞻かな。諸葛の息子だと大いにもてはやされ、実戦経験もないであろう状態でいきなり鄧艾の相手をさせられました。案の定マズイ指揮で惨敗して戦死。陳寿からは「実力以上の名声」とほぼ無能の烙印。黄皓と繋がってたりと多少怪しい部分も垣間見えますが、偉大な父の影が常に付き纏っていたことだと思います。
・補足について
何が言いたいのかよく分かりませんが、要するに正史の記述といえど当てにならないってことかな?まぁ見方はそれぞれだから真っ向から否定する気はありませんが…
演義のことは別にして私見を述べさせていただくと、陳寿の立場から言えば魏延の記述で筆を曲げたいうことは有り得ないかと。理由がありません。主人である晋にとって都合の悪い事実でもないし正史にも「謀反を起こす気などなかった」と書いてありますし。さらに魏延と陳寿が何か因縁があるほど近い存在でもなかったですし。また、魏延の事件に関係している人物も晋代には全員死んでます。いや、劉禅は生きてるかな。まぁどっちにしろ蜀の生き残りに気を遣う必要もないわけです。何一つ筆を曲げる理由はないと思いますが。
ある本で一つ興味深い記述を見たのですが、清代に編纂された『南鄭県志』には漢中近くにある遺跡に三国時代に建てられた「礼に則って葬った」魏延の墓があったらしいです。これが事実なら魏延を殺した直後には濡れ衣だったというのが既に蜀国内でも知られ名誉回復をされていた可能性があります。これを見ても陳寿が魏延の事件に関して何一つ隠すことも歪曲することも無かったと思われます。要するに正史の記述以上のことは無かったんでは、ということです。まぁ楊儀と姜維が結託して魏延の軍権を奪い取ったということは十分有り得ますがね。子午谷ルートは割愛。結論の見えないifなんで。
魏延が有能な将帥であることに疑う余地はありませんが、質問者さんは少し感情論に流されすぎかなという気がします。
王朗です。正史では魏の最初の三公のひとりで徳高い人物なのに、演義では諸葛武侯に舌戦でまけて死んでしまうとは…演義では寿命が変わってしまうのは度々ですが、こんな酷い死にかたは…
正史演義両方に精通されているようですが、混同されてませんか?(敢えてでしょうか?)
「兵は拙速を尊ぶ」といいます。が、子午道から長安のルートはいかにも危険ですね。魏延のような良将を危険にさらすのは政治家諸葛武侯としてはできない。それが限界ともいえますが。
0 件のコメント:
コメントを投稿