三国志の曹操の帝についての考え方と劉備の考え方ではどっちが正しいと思いますか?
僕は曹操の考えは間違ってないと思います。
この時代に「何が正しくて、何が間違っている」という話をするのは、野暮ってものですぜ。
魏呉蜀三国の英雄は、それぞれの正義を証明するために戦ったわけですし。
皇帝の本業は、経緯はともかく天下統一し、
治水、天災など山積みな、問題を解決し。
封禅まで行なえて初めて責務を果たしたといえるでしょう。
曹操も劉備も、共にその最初の課題すら行なえてないので、
帝を論ずる以前に問題外です。
あえて二人に優劣をつけるなら、害の少なかった劉備では。
曹操は
・ここぞという戦いに勝てずに、よく死者を増産する。
初期の段階で董卓を斬っていればそもそも、大乱を防げた。
・この時代の人たち皆そうだが、後漢の築いた尊皇攘夷を破れる
器でなかった。
前漢時代。最後の皇帝などフツーの群雄に容赦なく殺され(王莽には
殺されていない。新王朝滅亡後、自立している)。
また光武帝も統一の経緯で、直系に近い劉氏を普通に
打ち破っている。帝を利用という発想事態が、実力の無さの表れでは。
・研究した孫子の兵法を、民間に広めず。天下統一に貢献した
馮異という名将が後漢建国時にいたのに。彼の理念を台無しにして
孫子の兵法を世に広める。
・苦寒行とか、自分で仕掛けた戦争に嫌気が差したと詩で平気でのたまう。
とにかく愚痴の詩が多い。
・後漢で削減した後宮の号を戻し、いらん宮女を増やす。統一王者は
割りと色を好まない者が多いのだが。逆を行っている。しかも女性がらみの
失敗が多い。
・異民族を強制移住させて、五胡十六国時代を招く。後漢時は向こうから
来た倭の使者を、魏では強制的に都に連れて行っている。
・結局、王莽と同じ簒奪の手順を踏んでいる。軍は劉秀を真似ながら
遠く及ばず。
と、変な方向に頑張った人なので。とにかく関わった人が多く死んでますね。
彼の中では正義だったと思いますけど。
曹操は正しいと思います
重要なのは『世を治める事』
その為に、帝を利用するのは
間違ってはいないと思います
(次代が帝を廃してしまったのは失敗)
劉備がおとなしく、
曹操の下で官職やってりゃ
無駄な死人も出さなかったでしょう
呉とも争わずに済んだと思います。
大喬と小喬は、寝盗ら・・・
曹孟徳のIDを使わせて頂いてる立場から回答します。
私は曹操の意見に賛成です。(そりゃそうだ)
正史でも演義でも、劉備の大義は「漢室の復興」であり曹操も建前上は同じであるように見えます。曹操は確かに帝をないがしろにしている様に見えますが、帝位は奪っていません。(奪ったのは彼のドラ息子です)
一方劉備は途中から勝手に蜀漢皇帝を名乗ってしまっています。これは元々の大義に合わないと考えても良いでしょう。
曹操という人物を見ていると、「極端な能力主義」である事が伺えます。これは彼の「唯だ才のみ示せ」と言う言葉にも現れていますね。また彼は生れは悪く無いですが、宦官の養子であった事がややコンプレックスだったようです。(孔子の子孫を自称する孔融はこの点をチクチクつついて曹操の怒りゲージを増幅させていました)
さて、こういった人間が必ず思う事・・・それは「血筋とかどうでもよくね?天子とか(日本で言えば)天皇とか無能な癖に何威張っちゃってんの?ww」となる訳です。なので曹操や日本で言えば信長なんかは明らかに天子や天皇を自分より下に見ていますし、私もそう思ってしまうのは無理も無い事だと思います。
ここまで言えばピンと来られたと思いますが、曹操は天子を「偉い人」では無く統一の為の「お飾り」と思っている訳です。現在の天皇制に近い物がありますね。一方、劉備は天皇を前者だと思っている。だからこそ最後には蜀漢皇帝を名乗ってしまった。
私達に2人の帝に対する考え方の正否を決定する事はできませんが、私は曹操の考えがより適切だと思います。
―追記―
カテマスさん、わざわざご返信有難うございます。曹操は宦官の養子の息子と言っても、宦官のように天子を敬う立場ではありません。ご存知の通りあの時代の宦官は十常待のように依然として腐っており、宦官ですら天子を当然敬ってはいないと思いますよ。曹操が魏王になってから帝位纂奪を行わなかったのは彼自身が天子という位を高く評価していなかったのだと私は思います。唯才主義の彼からすれば世襲制の天子の位には全く興味が無く、「政治を行う際にシンボルとして利用しよう」くらいの考えだったと思います。
あと、どうも劉備が高祖の正式な末裔であったかは疑問です。彼はせっかくの劉姓を大義にしてしまおうと考えたのだとは思いますが・・・。
曹操は元々血筋による出世はしていません。正史の記述によれば北門の警備において立場が上の官僚に対しても怯む事無く取り締まりを行った事が評価されての出世が始まりだったと思います。
曹丕は元々偉大過ぎる父の存在が大きかったため、血筋はともかく能力主義だったとは言えません。手っ取り早く献帝から皇位を纂奪したのはその為かと思っています。
曹操が好きなので個人的には曹操の考えが正しいとは思います。
ですが他の回答者様も言っておられる通り、動乱の世に「正悪」はありません。
誰しも自分にとっては正義でも、相手から見れば悪なワケです。
劉備にとって言えば、自分は漢室の末裔だから正義である。なので曹操は逆賊だ。と。
曹操からしてみれば自分は漢の丞相である。劉備が逆賊だ。と。
ご質問の主旨がよく分かりません。
私の目には、両者の皇帝(後漢朝の帝位)に関するスタンスは同じもののように感じます。「絶対にして不可侵のもの」というのがそれです。個人的には曹操に帝位登極の意図は無かったと考えていますし。
【追記】
soumoutoku0114さん、私の見解は少し違いますよ。
曹操は「宦官の養子になった男の子供」であり、最初から「宦官の孫」でした。宦官とは本来、皇帝や後宮の私的な使用人であり、皇族を唯一絶対の上位者と認識するのが普通です。
ならば曹操は皇帝を軽視するはずがないと思うのです。だって、皇帝の軽視は宦官である祖父の否定でもありますから。だから皇后や外戚を族滅したりはしますが献帝自身に危害を加えたりといった話は皆無ですし、魏王になってからの4年間で簒奪(禅譲)へ向けたアクションも皆無です。
また劉備が帝位に登ったのは「献帝が弑殺された」という情報(誤報)があったからで、「曹丕に帝位を奪われ後漢朝の正統を受け継ぐ天子が絶えた」からです。自他共に認める傍系の有力皇族として立ち上がるのは、後漢を興した光武帝やその従兄弟の更始帝の前例があり、劉備にとって正当かつ当然の行為でしょう。
仮に献帝が生きていると判っていたなら、劉備は恐らく帝位には就かず献帝の救出に全力を尽くそうとしたはずですよ。
唯才主義とか革新的とか評価される曹操ですが、実はかなり保守的で儒教官僚や名家・名士に結構気を遣っています。そもそも彼自身が家柄で出世した身ですし、他者(特に劉備・孫権)に対して皇帝のような絶対的優位ではなく相対的優位しか獲得出来ていなかったからこそ帝位に就かなかったと見るべきです。
その意味で曹丕はフライングしたと考えるべきでしょう。
また劉備の血筋は当時誰も疑ってませんので、劉備の登極は大義からしても当然の行為ですよ。
0 件のコメント:
コメントを投稿