2012年3月29日木曜日

何故劉備の家計は漢室の末裔なのに農民まで落ちぶれたのですか?祖先が何か悪いこ...

何故劉備の家計は漢室の末裔なのに農民まで落ちぶれたのですか?祖先が何か悪いことをしたのでしょうか?







劉備の祖とされるのは前漢の6代景帝の子で、7代武帝の兄弟にあたる中山王・劉勝とされています。

武帝と劉勝の兄弟には、他にも後漢の光武帝の祖である劉発や、三國時代の劉璋や劉表の祖となった魯王・劉余などがいて、のちの三國時代を知る身としては非常に興味深いです。



さて正史『三國志』蜀書先主伝(劉備の列伝)には、劉勝の子の劉貞がタク郡の陸城亭侯に封ぜられたが、酎祭の献上金不足で侯位を失い、そのまま住み着いた…とあります。

ただし『漢書』の表によれば、劉貞は中山国陸成県の陸成侯として封ぜられており、恐らく『三國志』の方が誤りであろうと言われています。



酎祭とは正月から8月までかけて造る酒を宗廟(先祖の霊をまつる場所)にささげる祭祀で、諸侯には金銭負担の義務があったそうです。



中山王・劉勝は120人以上の子(一説には孫を含めた数字)がいたと言われますが、それから250年以上も経った三國時代に正確な記録が残っているとも思えず、またそんなに年代を隔てた子孫が「皇族」と呼べるのかも疑問です。

さらに『漢書』と『三國志』との相違とを考えてみても、劉貞の子孫がタク郡にいる必然性がなく、劉備の血筋は詐称と断定してしまってもほとんど差し支えないかと思われます。

(確かに冀州中山国と幽州タク郡は隣接してはいますが)



つまり劉備が農民(というか庶民)の出身である事はなんら矛盾がなく、それでいて「中山王の末裔」と言われても何となく納得できてしまう。

その程度の話なのです。

別に落ちぶれた訳でも何でもありません。








中山靖王劉勝(景帝八男)は色を好んだとされ、120人にものぼる子供がいたといれます。

その中でも劉備の先祖の劉貞は庶子とされており、身分はかなり低かったようです。

彼はそれでも劉備の出身地の涿郡涿県の列侯(領主)となったが、年貢を朝廷に納めずクビになりました。

以降のことはよくわかっていませんが、劉備はこの劉貞の子孫でも傍系だったといわれます。

それでも劉備の父は州郡の官吏だったのですが若くして亡くなり、幼い劉備と母はムシロ売りにまで落ちぶれたといいます。

そんな状態でありながら劉備は、叔父の劉元起の援助で盧植に学んでいますがら本家はそこそこ裕福だったのでしょう。

盧植は高名な学者で後に政治家や将軍として活躍しましたが涿郡の人だったので劉備でも学べたわけです。







劉備は何も悪いことはしていません。



劉備は中山靖王劉勝の子孫とされています。漢の宗室にその出生記録を残しているから間違いなくそうでしょうが、ただ、一説には劉勝は子だくさんで100人以上いるとされ、その子供からさらに数代下っているため、劉備の代になると万を越す血縁者がいるとことになります。その中には王侯になる者もいれば、農民として生きる者もいるでしょう。劉備の家は農民として生きただけのことです。



まあ、通常の考え方であれば、幾ら兄弟(従兄弟)が増えるとは言え、王侯となり領地を貰える筈ですが、前漢の文帝、景帝、武帝の三代が同姓王の中央への影響力を抑えるために、『推恩令』(正確には武帝の時ですが、文帝や景帝も同じことをやっていました)なるものを制定し推し進めた結果、同姓王の領地が限りなく縮小されることになりました。



『推恩令』とは、王侯の位を嫡子が継承し、残りの子には同一領地から一県或いは一郷の領地を分け与えられる、というものです。王侯家の子孫に必ず領地を貰える利点はあるものの、嫡子以外の子供は、親王から郡王、県主、郷主と代を追うごとに格下げされ、領地も細分化されてきました。しまいには領国自体も取り潰され郡県となり、これより中央集権国家が完成された、という訳です。



なので、劉備の代にもなると、領地すらなく農民などの副業をやらないと生きてはいけない状況になっているだけのことです。







劉備の300年くらい前の先祖に景帝の第八子の劉勝と言う人物がいて、劉勝は50人以上、一説には100人以上の子供を作ったと言われています。

そして劉勝→劉貞→劉昴→劉禄→劉恋→劉英→劉健→劉哀→劉憲→劉舒→劉誼→劉必→劉達→劉不疑→劉恵→劉雄→劉弘→劉備と続くうちに子孫の数は増え続け、劉備の代になると劉氏の血をひく者は1万人近くいたのではないかと思われます。(家系は三国志演義のものなので信憑性はありません)

1万人もいれば農民になるものがいても不思議ではありませんし、劉氏の血を引いていると言っても全然大したことはなかったのです。

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