三国志について、「最近分かってきた史実について、本当は“○○”ではないか」という知識を、知りうる限りで結構ですので披露してみて下さい。
≪例≫
●劉備:草鞋売りという稼業は嘘。今でいえば職業仲介及び警備会社が稼業。また兵法が不得意である事も嘘。史実では兵法に精通しており圧倒的な兵士数の差及び曹操・陸遜といった兵法の専門家以外は敗れた事はない。ちなみに曹丕は彼の布陣の欠点を見抜いたが、それは曹丕の山感が当たった事及びその時の彼の相手が陸遜であった事に過ぎない。
●諸葛亮:この時代で最も兵法に精通しているのは嘘。逆に兵法は苦手であったようである。まず城の中での情報収集や計略・相手国への外交等を駆使して戦場で自軍が勝てる条件を整えてから出撃するというのが彼の戦術であったと言われている。とはいえ曹操や周瑜等といった兵法の専門家にとって今までとは予想不可能であった為、大いに悩まされたようである。
●関羽:彼自身はあまり得意ではなく、彼の主君である劉備の方が兵法に精通していたようである。とはいえ全くの兵法音痴ではなく何度かは計略を用いたようである。
●趙雲:演義では高い武勇の持ち主として描かれているが、史実では武勇における活躍の資料はあまりない為演義の内容では疑問がある。また主君である劉備の子供を曹操の布陣から彼一騎のみで救った事も、過大表現のようである。とはいえ武勇はそれなりに高く、劉備およびその妻子の用心棒を度々任されていたようである。なお兵法に深く精通していたのは史実通りのようである。
●黄忠:表立った活躍は曹操の一族夏侯淵を討取った事しかなく、劉備が彼を関羽・張飛・馬超と同格にしたのは劉備のえこ贔屓のようである。また演義にある“老人”という表現も疑問があり、劉備とほぼ同年と見た方が無難のようである。
●典韋・許褚:身体的能力が高く、プロレスやK-1等といった格闘競技ならば彼らがこの時代で最高位のようである。しかし戦争である以上刀や弓矢等を使って戦うのは必定。武器を持つ事を含めると1位.呂布、2位.関羽の次の、3位.張飛&馬超(演義の内容程の武勇があるのか疑問)・太史慈(弓矢は最高位)と同等と見た方が無難のようである。ちなみに劉備一家が危機に陥った時の趙雲は、1位の呂布と同等以上の武勇を発揮したようである。
★その他:呉に渡った諸葛亮は、曹操軍から矢を集めたり風の向きを変える儀式をしたりという事はせずその国の主孫権を曹操と戦うように仕向けた事のみ。また敗れた曹操が関羽に命乞いした事も嘘。関羽に会う事はなかった。
昔から解ってたことなんですが、
後漢には郷挙里選という人事採用の制度がありました。人物の評判によって、人事採用を行う制度です。
出世を願う人々は、この制度への対応として、仲間内で大げさな誉め言葉を用いて、互いの人物評価を
高めようとしました。
「船頭多くして船、進まず」
軍は、普通、外部からの「人材」など求めません。船頭を増やせば、指揮系統の一本化ができずに戦争に負けるからです。
ですから、近代軍は、陸軍大学校等で、指揮系統の一本化のための従順な「人材」の内部育成を図るのです。
では、なぜ、三国志では「人材」を外部から求めるのか?船頭を増やすリスクを高めるのか?
実は、本当に欲しいのは「人材」ではなくて、「人材」の抱える私兵なのです。「人材」の多くは荘園領主であり、私兵を抱えて
います。この時代は、中国の耕地の9割が荘園です。人口の9割も荘園で暮らしています。ですから、兵力を増やすためには、
荘園領主を引き込まねばならないのです。
(人口の90%が死んだ、というのは、税や兵役の誤魔化しのためのウソです。人口調査されない荘園で暮らしています。)
そして、この荘園領主を引き込むためには、報酬だけではなくて、大げさな誉め言葉が必要だったのです。
結果的に、三国志の時代には、大げさな誉め言葉だらけの人物評価の文書が大量に書き残されて、後代、創作の元ネタ
を大量に提供できたのでしょう。
劉備は草履を売っていたのは事実だが、ここで勘違いされやすいのが彼が庶民ではないかということ
彼は地方豪族であって庶民ではない。ちなみに、豪族だからこそ学問を学べたといえる
諸葛亮において、武帝記においては諸・葛・亮・孔・明
これの一文字も書かれていないため曹操は諸葛亮の存在すら知らなかった可能性もある。
ちなみに、彼は劉備が死ぬまで軍事にはノータッチである(軍需の担当はしていたが)
黄忠は関羽が『老兵とは一緒にならんぞ』といったのがモデルになる
まだ話したいが文字数がない
何によってどういう知識を付けたのかよく分かりませんが、「三国志演義」を読んだ後、コーエー系の本
か誰が書いたかよく分からない演義と正史の比較本(雑学系?)の影響が伺える質問ですね。
●【劉備について】正史には「早くに父を亡くし、母を助ける為に草履売り、蓆売りで生計を立てた」と記載されています。
商人の用心棒や群雄間を傭兵部隊として渡り歩いている以上兵法に対して無学ではないでしょう。「演義」「正史」
でも兵法が不得意と書かれたりはされていません。
また曹丕は、「やまかん」で劉備が敗れるのを言い当てたわけではないですよ。曹丕の父親が当代随一の兵法家曹操
であることを考えれば、情報を受けた時点で判断できるほど兵法理解度もあったと言えるでしょう。
●【諸葛亮について】前半はまあよいでしょう。曹操、周瑜は特に諸葛亮に悩まされません。戦ったこと自体なかったと思
います。ここら辺が「演義」の影響でしょうか。
●【関羽について】何が得意ではないのか不明ですが、たぶん兵法のことを言っているのでしょうが、得意でなければなぜ
歴史の表舞台に出てくることが出来るのか?と思います。劉備がなぜ関羽に荊州を託したのか?益州侵攻時、諸葛亮
や張飛・趙雲が援軍に向かっても関羽が残ったのはなぜか?劉備が古い付き合いで信頼していただけではなく、関羽なら
外敵魏・呉の侵攻を抑えられると考えたからと捉えるならば兵法に対して得意ではないとすることは出来ない。
●【趙雲について】「演義」に書かれるほどの武勇は史実には見られないが、武勇はそれなりにあったと言うところは良いで
しょう。ただ、「演義」に書かれている趙雲の活躍は、「正史」の註「趙雲別伝」を参考にしていることは「正史」を読んでい
れば普通に知りうることです。(三国志雑学書ではなく、概説書にも記載あり。)
●【黄忠について】大きな活躍は敵将夏侯淵を討ち取った(一騎打ちではなく、黄忠が直接討ち取ったわけでもなく、黄忠
軍として)ことではあります。それだけではなく、先陣を切って敵陣を攻略したことなどを劉備が評価すれば依怙贔屓ではなく
なります。ただ、同行していない関羽からすれば新参者扱いなので不満があらわれるのを諸葛亮が心配して劉備が取り持つ
形で解消しているだけです。賛否はあれど依怙贔屓という単純な言葉では片付けられないでしょう。
●【典韋・許褚について】言いたいことがよく解らない。
★これこそ「演義」の影響だけで話をしているのが解りますね。儀式を行うことで風向きが変えられるのと思っていたなら、儀式
を行って寿命を左右できるのか?と言いたい。(魏延によって失敗するが・・・)「演義」の主人公が劉備とその仲間で成り立っ
ていること、曹操は敵役であることがこういう話が出来た所以(関羽に命乞いのところ)であることを考えましょう。
あなたの「最近分かってきた史実」は「演義」と「正史」の比較で「演義」にはフィクションの部分があることが分かった事に過ぎず、
「史実が分かったわけではない」ことと、「史実が分かる」なんてことはあり得ないので。
厳しいことを言うようですが、勘違いしないように。
「三国志を研究している様々な人々の著書」というのは、どんなモノかあげてみるといいと思います。
間違え多すぎ。勉強して出直してこい
「最近わかってきた史実」と書いておられますが、それは、質問者さんが、最近知った史実のことですか?
「三国志」は正史として昔からありますし、「三国志演義」は大筋では歴史事実を曲げてはいませんが、小説ですよ。
割と多くの人が、「三国志演義」を読んだだけで、「三国志」を理解しているつもりですので。
そもそも、桃園の決義などは、正史には書いてありません。
参考までにWikipediaから引用です。
「正史」と「演義」の違い
三国志愛好家が三国志について語る際、しばしば「正史」と「演義」の違いについて問題にされる。
「正史」とは、陳寿の『三国志』に記述されている事柄のことであり、『三国志』が王朝公認の歴史書(すなわち正史)に認定されたことから使われる呼び名である。
しかし、三国志の物語として知られる事柄は少なからず明代の白話小説である『三国志演義』によって創作されたものである。『三国志演義』は三国時代の治乱興亡について歴史小説として高い写実性をもって描いており、読者の多くが『三国志演義』の記述が史実であると思い込む傾向がある。しかし、『三国志演義』には少なからず説話本や雑劇から取り込まれた部分あるいは作者自身による創作が含まれている。また、登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の時代考証からみて不正確なものも多い。
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