三国時代の旗に関して。
普通、三国志関係のマンガやドラマでは蜀漢の旗に「蜀」の文字が書かれていると思います。
でも、劉備が建てた国の正式名称は「漢」なので、旗の文字も「蜀」ではなく「漢」のはずだ、とも言われています。
しかし、成都辺りは実際に蜀と言われており(巴蜀の蜀。巴は重慶辺り)、「巴」兵とか荊州兵なんかと区別するために「蜀」の文字が使われていてもおかしくないようにも思えます。
が、地方の兵団ごとに旗を作っていたら魏なんかは領土が広いから限りなく増えてしまうようにも思えてきました。
ということで、劉備が建国した後の旗に書かれていたのは「漢」だと思いますか「蜀」だと思いますか、どっちもあったと思いますか?
大穴の「蜀漢」は無いと思いますが・・・。
建国前は「劉」だけでしょうか。
kanshinshunjyuさんの意見が正しいかと思いますね。
これは劉備が皇帝になった時の経緯を考えればそう難しいことではありません。
まず劉備が皇帝になった理由は後漢が滅亡してしまったことから発しています。
劉備が皇帝になった時の上奏文をかいつまんで書きますが、
「漢王朝は衰えたとは言え、まだ命数は尽きていない。今、魏の曹一族が後漢
王朝を滅ぼし皇帝を僭称している。そこで(仕方なく)劉備が後漢王朝を継ぎ、
皇帝となる。」
と言った感じの内容だったはずです。つまり曹一族は簒奪者でしかなくその非道
を正すために劉備自身が漢王朝を継ぐ、と言う事ですね。
はっきりと漢王朝を継ぐと言っている以上「蜀」は消えます。またこの状況で中途
半端に蜀漢などと言うことも考えづらい。目的は漢の後を継ぎ、魏を滅ぼし天下
を統一することなのですから。天下統一の途上に蜀の地に拠っているだけなのに
まるでそこが最終本拠地であるかのような蜀漢などと言う名前を使うはずがない
です。
蜀漢がありかな、と思ってしまうのは私たち後世の人間が蜀の本拠地は結局益
州に留まっていた、と言う歴史的事実を知っているからでしょうね。
トウ芝の件ですが、そもそも呉側で書かれていたことですし、個人の発言と言う
のは歴史書の中では史家が改ざんしても問題ない分野(むしろ腕の見せ所)に
なる訳です。この時、本当に自国のことを蜀、と呼んでいたかと言うのは陳寿が
後世の人間の視点であえてそう言う表現にした、とも考えられますし、あまり意味
がないかな、と個人的に思います。
文字の解釈も蜀、と言う土地に劉備が皇帝になった漢が乗っかっていただけです
から土地そのものの解釈として蜀、と言う言葉が使われることがいきなり国名とは
結びつかないかと思います。
何より言葉遊びの範囲ですからね。呉なんかは呉郡に絞ってしまうと狭い地域を
指すことになってしまいますし、この時使われる言葉は呉を持ち上げるため、蜀を
貶めるための言葉なら何でも良かったはずですから。
そもそも旗に漢字を入れるのは小説や漫画の発想で、現実は色や図柄です。
私的には大穴の「蜀漢」とつけられたのだと思います。
三国志演義は劉備贔屓の小説なのでもちろん蜀漢。
三国志正史も、西晋の正当性を表すには魏の流れをくむのを証明する事が必要、実際魏国志、蜀国志、呉国志のうち魏が大半を占めているが蜀を持ち上げるようにかかれているのは著者「陳寿」が、魏・呉よりも蜀を尊んだものである。季漢(漢の末期)と言う言葉を残したのも、蜀王朝が実際は漢王朝であると、蜀(蜀漢)の遺臣である陳寿の故国顕彰の表れであるとされている。
魏によって滅ぼされた漢の字を表記するのは恐れ多い、でも正当性を表すのに蜀の地に起こった漢の皇帝なので蜀漢とし、旗に表記されたと思います。
劉備は後漢の皇帝(劉協)が弑されたとの誤報を信じて即位しましたから、旗はやはり「大漢」だろうと考えています。
何しろ弑殺情報を信じて「愍帝(孝愍皇帝)」なんて諡号まで奉りましたからね。
「漢の正統を継いだ」ので軍国旗は当然「大漢」でなければならず、その他に各将の将旗があったものと考えられます。
それ以前の数年は大将旗は「大漢漢中王」でしょうか。その前はきっと「大漢左将軍」だと思います。
個人的には、大将の姓だけ大書するというのには違和感を覚えます。やっぱり役職名(将軍号)を書いたんではないかと思います。
あと国号ですが、こちらも必ず尊称の「大」が付されているのではないかと思います。敵さんはそんなもの呼び捨てが当然ですが、配下や臣民が呼び捨てというのは…ないかな、と(^_^;
ついでに、魏の方からは劉備の政権を間違っても「漢」とは呼べないはずだから、蔑称(というか仮称)として「蜀」と呼称した可能性がありますね。
【追記】
そういえばトウ[登β]芝が呉に使者として赴いた時、「蜀」と称していますが…原文はどうなんでしょうか?あと誰だったか忘れましたが、呉に使者に出て「蜀」「呉」の字を分解して解釈した人物がいましたね(呉の人物だったかな?)。
それらから考えると、蜀漢はへりくだる際に「蜀」と称した可能性もありますね。
ただまあ、戦場に立てる軍国旗でへりくだる必要性は全然ないですが(笑)。
plazakuwana6411さんのご説には異議を唱えます。『三国志演義』ならともかく(これすら1800年前のおとぎ話ではなく約500年前の小説ですが)正史『三國志』(陳寿の著した歴史書)が蜀漢の側に立って書かれているなど、あり得ない解釈です。
『漢晋春秋』(習鑿歯の著した歴史書)の事をおっしゃっているなら解らなくもありませんがね。
諸説プンプン。実は大穴の「蜀漢」が建国後の旗というのが定説です。これは漢正室の嫡流で有るとされた劉備が、漢正室をはばかって、「蜀漢」としたのが一般的な通説です。建国前は「劉」が有力です。元々三国志は、劉備側に立ち書かれた文章で正しい歴史書では有りません。あくまでも劉備と言うよりも諸葛孔明の偉大さを後世に伝える為に書かれた小説的意味合いが強いのです。では何を持って正しい歴史書とするかは三国志に限らず歴史家や政治家の判断によるところが大です。
でもレッドクリフで諸葛孔明を演じた金城武は、かっこ良かった!※これも私の個人的見解でしかありません。
補足への説明 三国志にしても三国志演戯にしても、1800年前のおとぎ話です。当時の事は、文献によるしかなく、その文献も蜀側に立った文献を元に書かれた文献で、諸葛孔明死後、蜀は魏に攻め落とされ、その魏も司馬尉に滅ぼされるという滅茶苦茶な時代です。全てを正しく後世に伝えた文献などないと云うのが定説です。但し三国志の文献に限れば蜀漢が定説でしょう。
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