2012年3月20日火曜日

三国志演義について質問です。 「徐庶は最初は劉備の人格を慕って仕えていたが、曹...

三国志演義について質問です。

「徐庶は最初は劉備の人格を慕って仕えていたが、曹操に母親を人質にされたために

やむを得ず劉備のもとを離れ、曹操に仕えた。

そして、そのことを知った徐庶の母親は嘆き自害した。」

という話をききました。

でも徐庶は母親が自害した後も曹操に仕えたとあります。

なぜ母親という人質もいないのに曹操に仕え続けたんでしょう?

劉備の下へ帰ればいいと思うんですが…。







曹操は徐庶の母親の葬儀を豪華に執り行い墓も造ってくれたのです。

儒教の教えでは先祖の祭礼を執り行うのは子孫の義務とされていますから、徐庶は親の墓を放って劉備の下へ帰ることが出来なくなってしまいます。

ですが徐庶にとって母親の死は曹操のせいだという気持ちがありますから、今後は決して自らの知謀を使って策を組まないという誓いをしたとされています。



ちなみに史実では徐庶の母親が死んだという記録はありません。

ごく普通に劉備を見限り曹操に仕え御史中丞まで出世しています。

ただこれでは劉備に人徳があり曹操は暴君だったという話の説得力が薄れますから、出て行き帰らなかった理由を創作したのでしょう。








曹操は徐庶の母の為に葬式を行い、墓を作ってくれたからです。

当時主流だった儒教の教えでは親は君主同様。そんな親の墓を捨てるわけにはいけません。



正史では徐庶の母は曹操軍の捕虜となり心配になって劉備に諸葛亮を紹介してから劉備陣営を去ったそうです。

その後、諸葛亮は北伐の際、徐庶の官職を聞いて「才能に不十分だ。」と嘆いたらしい。

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