三国志で劉備が中国を統一するとしたら・・・。
この場面で、この様な行動をとっていれば・・・。
分岐点はどこだったでしょうか?
もしもの仮定の話してです。
皆様のご意見をお聞かせください。
三顧の礼の直後、天下三分の計をすすめられたとき、荊州の劉表の死の前後あたりで、劉埼の後見人として荊州を治めるか乗っ取っていれば大分違った事になっていたと思います。
荊州の水軍が有れば防衛は楽になりますし、蜀の侵攻ももっと早く楽になったと思います。
孔明以下幕僚がすすめましたが、あの時にそうしていれば時代は変わったかもしれませんね。
まず劉備の経済、名声は無視して、董卓追討後に洛陽に残っていたら
やがて天子を擁立して、曹操と同じ道を・・・(劉備に出来るかわかりませんが)
次、徐州で賢者を集い、地盤を固める。少なくとも張飛には留守番させない
時間はかかるかも知れませんが、諸葛兄弟は配下にできるかも
一番のネック!劉表の後任で荊州を治める。実際いちばん劉備が遅れをとった原因でしょう。
三国志演義は物語かもしれません。しかし歴史の流れはちゃんと踏まえています。
蜀は魏に滅ぼされ、晋が魏にとって代わり、呉は晋に滅ぼされます。
日本で言えば、義経が、信長が、幸村が、竜馬があのときこうだったら
考えればきりはないと思います。
そのときの物語を読んで、感銘を受けるのが文学だとおもいます。
劉備と諸葛亮が長生きの為に毎日「ウコンの力」を飲んで、曹燥と司馬懿と孫権が毎日「いいちこ2㍑」を一気飲みしていれば…
講談社、反三国志、周大荒著・渡辺精一訳をお読みになると良いでしょう。
これは小説ですが、史実を熟慮しあのときこうだったらと仮定して蜀が中国を統一するという内容です。
蜀嫌いの私でもなるほどと思い読むことが出来ました。
ただし、、、小説にありがちな仮定の人物が出てきて、そいつらが優秀だからというのもありますが、、、
まぁ、とにかく読んで見てください。
関・張が先走らず車冑をうまくたらしこんでいれば。
荊州の関羽の北上に呼応して漢中から長安へ一斉に攻めかかることです。
本当にできたかどうかわかりませんが?いくさはお金がかかりますからね。
徐州から逃げたのち、勅命で曹操暗殺を謀った場面ですかね。
というか、三国が鼎立された時点で国力差は1:2:7ともいわれます(1が蜀、2が呉)ぶっちゃけ、正攻法で勝てる場面はすでに通り過ぎている感が強いです。
考えられるならば、劉備が逃亡を行う前である程度の領地をもっていた時代「徐州統治」の時に耐えきるしかないかと。それも、袁術の攻撃やら曹操の侵攻やらを凌ぐしかない困難なものですが。
漢中攻略戦でしょう。
入蜀の際、留守番させられ、漢中抗攻略戦でも蚊帳の外の関羽。
漢中攻略の際、関羽を漢中に呼び参戦させましょう。後任には趙雲、黄権を派遣し馬良はそのまま補佐役として留めて守備を固め、呉との関係を強化します。
黄忠でもあの働きですから関羽の参戦で張郃も倒しましょう。これで漢中を獲得します。
この後漢中の関羽、黄忠、法正は上庸から、江陵からは劉備が孔明と共に出馬します。張飛、趙雲、魏延、李厳、馬謖、孟達、劉封等総力戦でのぞみます。別動隊として馬超を西凉方面を扇動し長安をうかがい、魏の戦力を分散。
ここでのポイントは呉の動静、作戦成功の折には荊州を全部譲る条件で合肥に進軍の確約を取り付けます。
魏30万対蜀呉連合20万(蜀12万呉8万)の大決戦。
孔明の事前の謀略により魏内部の分裂が起こり、黄河以南を制圧。
失意の曹操は死去。後継者争いで分裂した魏を西凉の精鋭騎馬を結集した馬超が一蹴。
ここで蜀呉の争いとなり呉が降伏し劉備が統一。
仮にこの展開で進んだとしても、統一は劉禅の代になったでしょうが。
関羽、張飛、趙雲、馬超、諸葛亮がもっと長生きしてくれたら劉蜀の快進撃は続いたと思います。
まず曹操から離れずに居て曹操に仕える名将として曹操の死後の曹ひが凡庸であるとかなんとかで後継者として名を挙げれば出来たかもとおもいます
荊州争奪戦(関羽死亡のタイミング)で公安の将を麋芳や傅士仁から、黄権、呂義、呉懿あたりに変えるだけでよかったと思う。
傅士仁や麋芳は中央への栄転で閑職へやっておけばいいし。
裏切りがなければおそらく宛城あたりまでは取っただろうし、そうすれば魏軍は当然長安、兗州あたりの部隊は関羽の北上を止めなきゃいけないだろうし、徐州あたりの軍は呼応して北上する呉軍を防ぐ為に合肥に圧力をかけなきゃいけない。
そうすると涼州、雍州がどうしても手薄になる。
そこを劉備、張飛、趙雲が率いる部隊で長安に侵攻、これを落とせば馬超の影響力が強かった涼州は味方になるから、魏と蜀の勢力は逆転していたはず。
あとは2方面から許都を押さえればあっさりと劉備の手による天下統一はなっていたと思うよ。
死ぬのも曹操のほうが先だし、曹丕はそこまで戦上手じゃない。
魏の領土を押さえれば、揚州と荊州東部だけの呉はもう敵じゃない。
演義として考えてみました。
徐庶が母を思い曹操の下へ行った場面、もしくは龐統が死んだ場面だと思います。
劉備自身の行動の分岐点では夷陵の戦いの場面です。
もし徐庶か龐統が劉備の下にいたのであれば夷陵の戦いの場面で劉備を止めることができたのではないか。
仮に行ったとしても、軍師としてつきいい結果が出ていたのではないか、と。
夷陵の戦いで軍師役についた馬良がダメだったとは言いませんが、徐庶もしくは龐統から比べると若干物足りない感があります。
私は、そもそも劉備は曹操暗殺に加わるべきではなかったと思いますね。
私が劉備を最も嫌いなのはこの場面で、
この男、自分の価値観を絶対視し平気で人を裏切る所があるのです。
もし彼が演義のいうように人徳の人だったというのなら、そもそも曹操を裏切らず影から支え漢王朝復興のために尽くすべきだった。
曹操が独善的で帝室を蔑ろにしていたとしても、今この時点では王朝の復興に努力していたのに次々と信じていた者達が裏切ればいっそ簒奪するしかないと思い定めるのは当たり前じゃありませんか。
劉備が徐々に曹操を誘導して乱世の奸雄ではなく治世の能臣に変えていけばよかったのです。
皇帝を唆して曹操との関係を不和に導いておきながら、いざ自分か危うくなったら幼い皇帝を置き去りにして逃げ出すこの不実、無能、卑劣ぶり。
ハッキリ言ってこの劉備という男、呂布よりも何倍もタチの悪い裏切り者です。
この男が漢王朝を滅ぼしたといっても言い過ぎじゃないと私は思います。
あくまで三国志演義の話ですけど、関羽の死ですかね。
劉備は関羽の仇をとることをあまりにも急ぎ、諸葛亮をはじめ多くの仕官の言うことを聞かず、
呉軍に出兵しました。(夷陵の戦い)
その結果敗北し、死に至ります。
張飛も関羽の仇が原因で部下に討たれましたし。
その後の蜀には有能な武将がいましたが、彼ら三兄弟がいれば、変わっていたと思います。
関羽の死は間逃れないとしても少なくとも劉備と張飛がいれば変わっていたと思います。
結局のところ、樊城の戦い辺りが劉備、延いては蜀のターニングポイントだったのではないかと思います。
諸葛亮の考えも、荊州、益州の両面から曹操に当たろうと構想していたのですから。
ですから、先ず孫権との絆を深める為に、関羽の娘と孫権の息子を結婚(実際はなかったとしたら貢物等で)をします。
そして兵糧の援助を頼み、且つ牽制をしてもらいます。
(中々厚かましいですがご愛嬌…)
荊州は糜芳、士仁(傅士仁は誤り)ではなく、有望な将に任せ、劉備も漢中から出陣し、楊、荊、益の三方作戦を展開します。
許昌での叛乱も、樊城が落ちるまで待たせ、落したと同時に叛乱させれば、許昌一帯は混乱し、関羽の許昌入りも早まります。
例え関羽に曹操直々の援軍を向かわせても、孫権が中原、劉備が長安に迫れば、一つに的を絞るのは致命的になります。
樊城、長安をなんとか攻め落とせれば、漁夫の利とばかりに孫権も本腰を入れてくるでしょう。
許昌さえ手に入れば、大義名分もこちらのものとなり、曹操を見限る諸侯も出てくる筈です。
そうすれば三国の均衡が等しく、しかも時の勢いは劉備の元にあり、上手く戦えば、天下も夢ではなくなります。
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