三國志の張飛はどのようにして死んだのですか?
武元年(221年)、劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢)を建国すると、
張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷公に昇進した。
同年、劉備が呉に対して荊州奪還戦をすることになると、
張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。
その準備をしている最中である同年6月
かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。
劉備はかねてより張飛が刑罰を頻繁に行い、
さらにその部下を自分の近侍として仕えさせたままでいることを戒めていたが
張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、
その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ。
義兄の関羽の仇討に出かけようと勇躍していた矢先、
劉備の憂慮(下に記載※)が当って、あっけなく殺されてしまった。
陳寿著『三國志』の「張飛伝」では、経緯は記録されておらず、
裴松之も諸書を引用していない。
「第八十一回急兄仇張飛遇害雪弟恨先主興兵」でのみ、
関羽の弔い合戦であるから、軍中に三日以内に白旗白衣を整え、
三軍ともに白装束で出征するように張飛が命じたところ、
末将の范彊と張達が猶予を願い出たので、張飛が怒って鞭打った上、
明日中に揃えないと打ち首だぞと二人を威したので、
二人は相談して張飛の寝首を掻いたのであるという。
この時、張飛は五五歳であったとあります。
『三國演義』には述べられているが、恨みを残して死んだことになる。
※その昔、張飛は勇壮で威猛があるのは関羽に次ぎ、
魏の謀臣の程昱等はみな関羽と張飛を一万人の敵となることができると称賛していた。
関羽はよく士卒を待遇したが、士大夫に対しては驕慢であり、
張飛は君子を敬愛して小人を憐れまなかった。
先主は常にそれを戒めていった。卿は刑罰で人を殺すことが既に多すぎる上に、
毎日のように兵士を鞭打っておきながら、身近に使っている。
これは、禍を招くやり方だぞ!と。張飛は、それでも改めなかった。
ある程度答えが出ているのでそれに関するエピソードを一つ。
張飛は罰せられることを恐れた部下に寝ているところを殺されるのですが、張飛は目を見開いて眠る癖がありました(たまにいますねこんな人)
張飛を殺そうとして寝室に侵入した部下はカッと目を見開いた張飛と目があったのでビビって暗殺を断念しようとおもったのですが、やがて眠っていることに気づいて安心し、暗殺を遂げたそうです。
張飛のお墓は新三峡ダム建設の時にそのままだと水没してしまう、ということで話題になりましたね。
張飛は、部下に異常に厳しすぎたので、恐れた部下に寝首をかかれて殺されました。
その後、張飛の首は呉に送られて、蜀に戻って来ました。
その部下を、息子の張苞が復讐で殺害しました。
暗殺された。。。。。。。
豪傑でしたが、粗暴で、孫権との戦いの直前に自分の部下に暗殺されました。
(まるで織田信長みたいですね…)
恨みを抱いていた部下に暗殺されました。
張達だったかな
0 件のコメント:
コメントを投稿