三国志についての質問です。
劉備は漢王朝再興を目的としていたのになぜ自分が皇帝になったのでしょうか?
曹丕が帝位についたからですか?
そもそも漢王朝再興というのは大義名分だと思います。
劉備は皇帝になるという野心があったがこの大義名分によってなれなかった。
しかし曹丕が帝位についたことで自分の皇帝即位を正当化できるようになったからなった。
もちろん劉備が最初から皇帝になるという野心があったかといえばないと思いますが乱世を渡って自分の軍団が大きくなっていくうちにそういう野心が芽生えたのだと思います。
魏が後漢から禅譲をうけ正式な国になって漢が滅んでしまったからです。
前皇帝の献帝が魏の地方役人になってしまったので、実質漢は滅んでしまいましたが、劉備の建てた蜀漢は後世の人が前漢や後漢と区別するためにつけた名であり劉備本人は漢帝国であると自称しているのです。
ですから献帝が皇帝でなくなったので漢の次の皇帝は自分だといった感じで即位したのです。
曹丕への対抗心が表向きですかね?
本心は「なりたかったから」、オモテの理由は「献帝が殺されたから」です。
そもそも劉備が漢中に攻め込んだのは、防衛線を首都から離すという理由もあるでしょうが、祖先の高祖・劉邦が「漢中王」になってから、皇帝になったという故事を再現したいためです。漢王朝というのは、高祖が「漢王」を名乗っていたから、そういう国号になったのでした。
だから劉備は蜀王とか益州王とかいわず、「漢中王」を名乗ったんです。これはもう、動機が明白ですね。
さて曹丕が献帝から「禅譲」されて、魏の初代皇帝になったとき、蜀には「献帝が殺されて、帝位が奪われた」という噂が入ったんです。
それで漢の血統を守るため、「やむなく」即位ということになったわけでした。
無論、献帝は殺されてません。山陽公となり、後漢でも2番目に長寿でした。
しかし蜀では都合のため、「死んだ」ことにされたのです。もちろん、デマであったことはのちに判明しましたが、もう後戻りは出来ません。
陳舜臣は「秘本三国志」で、「蜀ではタブーの話題となり、ダークな部分を背負ってしまった」と書いています。
劉備は、最初から皇帝を目指していました。
幼い時に家の前に生えている大きな桑の木を見て
劉備は「大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った
という逸話があります。天子の馬車は桑の木で出来ているので、
この話は皇帝になるという野心を意味したものと理解されています。
三国志演義で、
劉備が漢王朝再興とか言い出したように書かれているのは、
儒教倫理にあわせた脚色です。
史実の劉備は、豪放磊落で、遊び好きの、任侠肌の人でした。
だから義兄弟をもっている。
ところが、儒教倫理的な善悪感からは
主人公は、まじめな人物ではなくてはならないので、
劉備像は捻じ曲げられ修正されて、野心のない人間に変更されているわけです。
だから演義では、漢中王になるときも、蜀漢の皇帝になるときも、
回りくどい、辞退とか、推薦の話がありますが、
あれはすべて儒教的に正しいよ、ということを説明するための脚色で
史実とは全く関係ない、フィクション部分です。
献帝が廃されたから、劉家の後継者として即位したのだろうと思います。救出できなかったから、継承権者がいなくなったことになったのでしょう。
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