三国志で劉禅が劉備の後継ではなく、弟の誰かがなってたらどうなっていたと思いますか?
もしもは歴史では禁句ですが、考えてください!
butagesoさんと同意見ですね。
劉禅自身も17歳だし、劉永はおそらく10歳前後、劉理はもっと幼かったはずです。幼長の序を考えても後継者としての年齢や見識・能力を考えてもわざわざ弟を立てる意味はほとんどありません。それどころか劉禅を担ぐ輩が必ず出てきたはずです。
質問者さんは「阿斗」と言われる劉禅が、通常言われるように「ダメなバカ殿」だと思っておいでなのだと推察致しますが、劉禅はかなり有能な為政者だったと思いますよ。でなければ全国民の約1割を兵力として徴集する超軍事国家を約40年も維持できませんし、維持するだけでなく反乱などの不満の爆発もほとんど見られません。
まあ諸葛亮らの補佐が大きかったのもありますが、それにしたって皇帝をもしのぐほどの絶対権力を持つ諸葛亮を疑う事もなく全面的に信任しています。普通なら皇帝の座を脅かされるのを恐れて権力を削ったり粛清にかかると思うんですがね。
一方の劉永・劉理と言えば、何か軍事的・政治的な功績が記録されている訳でもなく人柄を思わせる話が残っている訳でもない。ただ王に封じられた事が記されるのみです。
そういった事などを考えてみても、弟達は劉禅以下ではあっても以上にはならなかっただろうと思います。
面白みの全くない回答をさせていただきます。後主伝の諱が、禅から理か永に変わったぐらいでしょう。
幼君なので、諸葛亮などに補佐されないと、国政を運営できなかったでしょうから。
余計なお家騒動が起こって国内に派閥抗争が起こることは必定でしょうね。
そもそも、17歳当時の劉禅になにか落ち度がありましたっけ?
劉備は袁紹劉表の二の舞を犯したバカ、と言われたでしょう。
すぐ下の弟である劉理は病気で早死してますしね。意味不明な後継者選びでしょう。
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