2012年3月9日金曜日

三国志の夷陵の戦いって 劉備軍と孫権軍の兵力の 違いはどれくらいでしたか?

三国志の夷陵の戦いって

劉備軍と孫権軍の兵力の

違いはどれくらいでしたか?







呉については、

『三国志 呉書』の『陸遜伝』に

「黄武元年(222年)、劉備が大軍を率いて西方の国境時代へおしよせてくると、

孫権は陸遜を大都督に任じ(中略)五万人を指揮して、

劉備の進出を食い止めさせた。」

と明記されており、五万人と考えて間違いないでしょう。



問題は蜀のほうで…。

正史『三国志』には具体的な記述が見つかりませんでした。

ただ、呉が最初低姿勢で和議を提案したこと、

その後、魏に頭をたれてまで味方につけようとしたことから

推察するに、兵力は呉よりかなり多かったと推察されます。



『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻』(学研)の『検証・三国時代の軍事力』という章では、

三国の動員可能な兵力について、総人口を元に

魏:20万人

呉:15万人

蜀:8万人

と算出しており、

この計算を信用するなら、蜀の兵力は6~7万、

ということになるのですが・・・。

これでは呉の低姿勢が説明できません。

荊州勢の生き残りが加わって

10万人程度、といったあたりが妥当な線かと思います。








確かに陸遜伝には「呉軍5万」とされていますね。



蜀軍は大軍とありますが、文帝記の註には「劉備の支党4万人と馬2~3千頭がでてきました。」という孫権からの上書が載せられている。

また蜀軍の被害は「斬首したり投降してきたりしたものは数万にのぼった。」(呉主伝)

「その死者は数万にのぼった。」(陸遜伝)

「陸議はその兵8万余人を殺し・・・。」(劉よう伝註)



呉領内の異民族も蜀軍に協力していることから、5~10万の兵力だったようです。

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