三国志の夷陵の戦いって
劉備軍と孫権軍の兵力の
違いはどれくらいでしたか?
呉については、
『三国志 呉書』の『陸遜伝』に
「黄武元年(222年)、劉備が大軍を率いて西方の国境時代へおしよせてくると、
孫権は陸遜を大都督に任じ(中略)五万人を指揮して、
劉備の進出を食い止めさせた。」
と明記されており、五万人と考えて間違いないでしょう。
問題は蜀のほうで…。
正史『三国志』には具体的な記述が見つかりませんでした。
ただ、呉が最初低姿勢で和議を提案したこと、
その後、魏に頭をたれてまで味方につけようとしたことから
推察するに、兵力は呉よりかなり多かったと推察されます。
『歴史群像シリーズ17 三国志 上巻』(学研)の『検証・三国時代の軍事力』という章では、
三国の動員可能な兵力について、総人口を元に
魏:20万人
呉:15万人
蜀:8万人
と算出しており、
この計算を信用するなら、蜀の兵力は6~7万、
ということになるのですが・・・。
これでは呉の低姿勢が説明できません。
荊州勢の生き残りが加わって
10万人程度、といったあたりが妥当な線かと思います。
確かに陸遜伝には「呉軍5万」とされていますね。
蜀軍は大軍とありますが、文帝記の註には「劉備の支党4万人と馬2~3千頭がでてきました。」という孫権からの上書が載せられている。
また蜀軍の被害は「斬首したり投降してきたりしたものは数万にのぼった。」(呉主伝)
「その死者は数万にのぼった。」(陸遜伝)
「陸議はその兵8万余人を殺し・・・。」(劉よう伝註)
呉領内の異民族も蜀軍に協力していることから、5~10万の兵力だったようです。
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