2012年3月13日火曜日

劉備と結婚した孫権の妹が、母の危篤(策略)で呉に帰りましたが、その後どうなっ...

劉備と結婚した孫権の妹が、母の危篤(策略)で呉に帰りましたが、その後どうなったのでしょうか??







『正史三国志』に、

孫夫人の伝がありませんので、

蜀書穆皇后伝によると、

劉備が益州を平定した後に、孫夫人は呉に帰国したとされます。



「三国志」蜀書穆皇后伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、

孫夫人は劉禅をつれて呉に帰ろうとしましたが、

諸葛亮は趙雲に命じて長江を封鎖し、劉禅を奪還したとされます。

このため、劉備と孫夫人の仲は以前にも増して険悪になり、

孫夫人は公安に新たな居城を築かせて住まいし、

別居状態になったといいます。



呉へ帰国後の孫夫人の動向は、不明です。



『三国志演義』でいうと、『漢晋春秋』などに基づいた記述があります。



209年に、

劉備との政略結婚の話の時に初めて孫夫人の名前が出てきます。

周瑜の発案で婚姻政策により劉備を呼び寄せ、

国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略でしたが、

諸葛亮の策のより、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出する事に成功します。



嫁ぐなら、天下の英雄にと願っていたとされ、

夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていましたが、

両人の仲は良好なものであったとされます。



孫夫人は呉から数多くの官吏兵士を連れてきていましたが、

この者たちはみな素行が悪く、よく不法行為を働いたといいます。

これに劉備は頭を悩ませ、劉家家中の仕事であるにもかかわらず、

厳格慎重な趙雲ならばと、

特例として仕切ることを頼んだという記述も残っています。



212年頃に、

劉備と兄・孫権との関係が悪化します。



そこで、張昭と魯粛の策で孫夫人の母が危篤との偽報を聞かせ、

阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとします。

しかし、それを発見した趙雲と張飛が阿斗を奪い返したので、

彼女はそのまま、母国に帰国することになります。



阿斗は、趙雲に二度救出されたことになります。



阿斗の連れ去り未遂事件は、

趙雲・張飛が荊州にいない時期ですので、

演義お得意の逸話の域を出ず、創作話であろうとされています。



帰国した孫夫人はその後再婚せず、

222年に夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞き、

絶望して長江へ身を投げたという設定になっています。

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