劉備と結婚した孫権の妹が、母の危篤(策略)で呉に帰りましたが、その後どうなったのでしょうか??
『正史三国志』に、
孫夫人の伝がありませんので、
蜀書穆皇后伝によると、
劉備が益州を平定した後に、孫夫人は呉に帰国したとされます。
「三国志」蜀書穆皇后伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、
孫夫人は劉禅をつれて呉に帰ろうとしましたが、
諸葛亮は趙雲に命じて長江を封鎖し、劉禅を奪還したとされます。
このため、劉備と孫夫人の仲は以前にも増して険悪になり、
孫夫人は公安に新たな居城を築かせて住まいし、
別居状態になったといいます。
呉へ帰国後の孫夫人の動向は、不明です。
『三国志演義』でいうと、『漢晋春秋』などに基づいた記述があります。
209年に、
劉備との政略結婚の話の時に初めて孫夫人の名前が出てきます。
周瑜の発案で婚姻政策により劉備を呼び寄せ、
国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略でしたが、
諸葛亮の策のより、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出する事に成功します。
嫁ぐなら、天下の英雄にと願っていたとされ、
夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていましたが、
両人の仲は良好なものであったとされます。
孫夫人は呉から数多くの官吏兵士を連れてきていましたが、
この者たちはみな素行が悪く、よく不法行為を働いたといいます。
これに劉備は頭を悩ませ、劉家家中の仕事であるにもかかわらず、
厳格慎重な趙雲ならばと、
特例として仕切ることを頼んだという記述も残っています。
212年頃に、
劉備と兄・孫権との関係が悪化します。
そこで、張昭と魯粛の策で孫夫人の母が危篤との偽報を聞かせ、
阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとします。
しかし、それを発見した趙雲と張飛が阿斗を奪い返したので、
彼女はそのまま、母国に帰国することになります。
阿斗は、趙雲に二度救出されたことになります。
阿斗の連れ去り未遂事件は、
趙雲・張飛が荊州にいない時期ですので、
演義お得意の逸話の域を出ず、創作話であろうとされています。
帰国した孫夫人はその後再婚せず、
222年に夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞き、
絶望して長江へ身を投げたという設定になっています。
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