三国志の張翼ってどんな武将だったのでしょうか?
また、関羽、張飛、趙雲、劉備、孔明などの武将とは絡みはなかったのですか?
先祖は代々後漢の要職に就いていた家柄で、劉備が蜀を平定し書佐に任命される場面で登場します。
建安末期(196~220)に県令や太守を歴任し南中を治める中郎将となるが、法に厳格すぎて異民族の歓心を買うことをしなかったので、頭目の劉冑に反乱を起こされます。張翼は鎮圧に出かけた途中、都より召還命令が出されたが「任務をほったらかしにして戦場を去ることはできない」と言い、後任が到着するまで戦地にとどまり続けて反乱を無事に鎮圧します。
諸葛亮はこの話を聞いて張翼を高く評価。北伐の際には前軍都督に任命し数々の軍功を上げています。
諸葛亮の死後は、姜維の度重なる北伐に反対して、姜維と対立するようになりますが、姜維は必ず張翼を同行させながら各地を転戦し、最終的に左車騎将軍まで昇進しています。
蜀滅亡の際には姜維と共に剣閣に駐屯していたが、魏に降伏。翌年の鍾会の反乱に巻き込まれ兵士に殺害されたと伝わっています。
『演義』では劉璋配下の武将として登場します。最期は正史と同じく鍾会の反乱で、姜維と共に乱戦の最中に討ち死にしています。
姜維とともに蜀に殉じた義士といえる武将です。
蜀において、大切なキーパーソンですよ。
ずっと地方を支え、蜀末期は、剣閣で最後まで戦った方です。
前漢・張良の子孫と言われております。
父は後漢の司徒、曽祖父は太守を務めた名門の出身。
息子の張微、孫の張存があり、『三国志』蜀志に伝がしっかりあります。
漢の名臣の末裔であり、自身は蜀(蜀漢)に仕えた。
蜀滅亡まで生き、蜀滅亡後の成都の争乱において死去しました。
玄徳が、益州牧を兼任したときに取り立てられ、書佐に任命。
その後、江陽県長、涪陵県令、梓潼太守、広漢太守、蜀郡太守と地方官を歴任した。
伯約のクーデターを共にし、死去した方です。
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