北方三国志や蒼天航路などで描かれた長安への北上作戦は劉備軍の中で戦略として存在していたと思いますか?
有り得ないと思う一方、有り得てほしいという願望もあってよく分からないです。
漢中で曹操と長々とやりあった後に、さらに長安を目指すというのは色々な面で不可能のような気もしますが、関羽北上のタイミングが曹操が漢中から撤退した後であるが少し引っかかります。
漢中での戦は決して劉備軍にとっても楽なものではなかったですし、普通なら援護の意味も兼ねて漢中戦の最中に北上するのではないかと思うのですが。
それをあえて曹操撤退後に北上するあたり、何かステップを踏んでいるというか、戦略的な何かがあったような気がしてなりません。
まあ勿論、そもそも劉備軍の戦略に関羽北上などなく、関羽が独断で攻め上がっちゃったという可能性も大いに有り得るわけですが。
まだ正史を齧る程度の知識しかないので、どなたか詳しい方の意見を聞きたいです。
劉備が尊敬していたのは、自分のご先祖・前漢の高祖・劉邦でした。
蜀を押さえている以上、敵勢力によって漢中をふたにされてしまうと窒息してしまいます。だから排除しなければならないんですが、実は劉邦が中原に出たのも、漢中を項羽より与えられたのち、勢力を鍛えて北上したのです。
つまり劉備が勝手に(朝廷の承認なしに)「漢中王」を名乗ったのは、「高祖の故事に倣うぞ」という宣言でもあるんです。
だから漢中を抑えた以上、将来的に北上して長安を狙うのは、劉備陣営にとって想定内のことなのです。(ちなみに。「漢」という国号は劉邦が漢中王になって、略して「漢王」と呼ばれていたからですね)
漢中からは「蜀の桟道」といわれる、か細い橋を渡って北上するのがセオリーですが、前漢の大元帥・韓信は裏道の「故道」を見つけて北上、章邯の意表をついて関中盆地に出て打ち破りました。
劉備・孔明も、この故事に倣うつもりだったろうと思います。
もっとも、歴史に詳しい曹操は、先にしっかり備えていましたが。
関羽北上は、まったくの独断だと私は思います(諸説あり)。
関羽には、呉との国境を守り、付け入らせないというのが何よりの前提で、動くことは想定していません。同盟国とはいえ、虚虚実実の乱世、いつ裏切るか分からず、荊州を奪われては劉備のこれまでの苦労も水の泡です。
しかし、関羽は結構傲岸な武将で、自分は劉備軍一の武将と思っていました。
なのに大手柄の漢中戦で、自分より下位だと思っている趙雲や黄忠が活躍したのを悔しく思ったのです。
関羽は黄忠が将軍に任命されると、丞相・諸葛孔明に「黄忠はどんな奴だ?自分と比べてどうだ」と、結構焦った(嫉妬した?)手紙を送り、孔明は「黄忠が猛将であっても、ヒゲ殿に到底及びませんよ」と慰める手紙を出す羽目になりました。
もちろん魏勢力が敗戦で意気消沈しているうちがチャンスという、関羽の戦略もあったでしょうけど、独断であればこそ、本国の援軍も遅れたといえるでしょう。
ただ、荊州といっても、劉備が押さえているのは貧しい南部に過ぎず、本当の豊かな荊州は魏が持っている襄陽など北部の主要都市であり、「大戦略として」荊州全域が欲しい、というのは、劉備陣営のテーゼでもありました。
しかし、新領地の漢中経営に手が掛かっている状態での、無謀な突出はタイミングが悪すぎたというべきで、しかも関羽は呉と打ち合わせもせず、勝手に出撃して、後背を考慮していない、ズサンなものでした。
北方三国志では、漢中争奪戦は臓腑の縮むような戦いでしたし、
たしかに戦闘の継続は疑問視できますね。
気になるのは、長安など関中地方が、曹操陣営に組み込まれて
どれほど安定していたかです。
蒼天航路では、関中軍閥やその後の統治に気を配っていました。
ただでさえ遊牧系の集団が闊歩していた地域ですし。
宮城谷三国志でそのあたりをどう描いているかを楽しみにしてい
ます。はやく文庫化して欲しい。
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