2012年3月20日火曜日

三国志の時代の婚礼の仕方を知りたいです。

三国志の時代の婚礼の仕方を知りたいです。

三国志演義には、孫権の妹との婚礼を口実に劉備を呉によびよせる、というくだりがあります。劉備は婚礼を口実に殺されるのではないかと心配するのですが、この場合、劉備は婚礼するために呉に一度、行かなくてはいけないのでしょうか。それとも、妹をいきなり劉備の収める土地に呼び寄せてしまってもいいのでしょうか。



他にもこの時代の婚礼のしきたりや様子を教えてください。







中国古代の婚礼は主に「六儀」という決まりがあります。

周の時代から有ったといわれるので、三国時代もほぼ同じです。



1、纳采;新郎の代理人が新婦の家を訪れ、婚姻を申し込む。

2、問名;新朗の代理人が新婦の名字や生年月日を確認する。

3、納吉;新郎側が男女の相性を占った後、新婦の家に婚姻に問題ないことを伝える。

4、納徴;または「納幣」。新郎側が新婦の家に贈物を送り、婚姻が成立したことを証明する。

5、請期:新郎側が式を挙げる日を決めて新婦側に伝える。

6、親迎;新郎が新婦の家に行き、妻を迎えて帰ってくる(皇帝などは親迎の儀式は行わない)。



この6つの段階を経て、新婦は新郎の家に入り挙式となります。

結婚の「婚」は「昏」と同音なので、普通は黄昏に式を挙げました。



劉備の場合はちょっと違います。

まず、結婚の申し込みがあったのは新婦側からです。

呂範が新婦側の代表として荊州に来ました。

次に孫乾が新郎の代理として呂範とともに呉に行きます。

これが「納采」に当たると思いますが、実際は「問名」「納吉」も兼ねています。

次に「孔明先使人往東呉納了聘(孔明は先に東呉に人を送り贈物を納めた)」とあります。

「納徴」です。

劉備が呉に入り甘露寺で呉の主要人物と会った後、吉日が選ばれ、式が挙げられました。

本来、嫁を連れて荊州に還るはずですが、孫乾が初めに呉に行った時、孫権がはっきりと「吾願将小妹招贅玄徳(玄徳をムコに迎えたい)」と言っているので、呉で式を挙げています。



もともと「親迎」という儀式があるので、劉備が呉に赴いたのは自然なことです。

逆に、結婚するから来い、ということになると、礼に外れた行為なので、孫劉関係に影響が出るばかりではなく、世間からも非難を浴びることになったと思います。

しかし、呉で式を挙げ、妻の家に入る、というのは珍しいことです。

まあ、孫劉双方に政治的な意図がある結婚なので通常の儀礼とは異なる流れになるのも仕方が無いことですが。

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