2012年3月18日日曜日

三国志で『曹操軍が江東攻略のために南下してきた際、孫権は劉備のもとへ魯粛を派...

三国志で『曹操軍が江東攻略のために南下してきた際、孫権は劉備のもとへ魯粛を派遣した』というエピソードは正しいでしょうか、正しくないでしょうか。

正しいとしたら「何の戦い」など、正しくないとしたらその箇所とか理由を詳しく教えて下さい。

三国志初心者なもので宜しくお願いします。







◆正しいとは言い切れないエピソードだといえます。

より正しくは、

①「江東攻略」ではなく「荊州攻略」のために南下。

②「劉備」のもとへではなく「荊州」に魯粛を派遣。

だと思います。



■経緯

孫権陣営は魯粛の献策で「三分天下」戦略をとっていました。

一般に「天下三分の計」と呼ばれる戦略で、

曹操陣営が強大であるため二つの勢力で凌ごうとしたものです。

これは西暦200年に魯粛が孫権に献策した戦略のうちの第一段階で、

当時は曹操・孫権・劉表の三勢力で鼎立を構想していました。



(西暦207年、諸葛亮が劉備に「天下三分の計」を献策)



西暦208年7月、曹操が荊州への進軍を開始。

翌8月、荊州牧の劉表が病死してしまいました。



三勢力の一角が危ういと見た魯粛は孫権に進言し、

弔問使者の名目で荊州の動向を探りに向かいました。

魯粛の思惑は、

「劉表の息子(劉宗)が後継者としてそのまま荊州を

治められるなら劉宗を三勢力の一角のままとして、

そうでなければ新たな勢力(劉備)を一角に据える」

ためです。



結果、劉宗は荊州をあげて曹操に降服。

そこで魯粛は、蒼梧太守のもとに逃れようとしていた劉備と会談。

劉備に同盟を提案して同意を得た魯粛は、

劉備側の使者として諸葛亮を伴ない孫権の承諾を受けに戻った。

という次第です。



(その後、「赤壁の戦い」が起こることになります。)








正しいエピソードです。



赤壁の戦いの前に、曹操は荊州を占領しました。

荊州の次は呉だと恐れた孫権に、魯粛が進言します。

「劉備は荊州で曹操に敗れましたが、江夏に兵力を温存しています。劉備の元へ行って、曹操軍の勢いや劉備の戦意を探ってきます」

このような進言をしたのには理由があります。呉の重臣のうち、魯粛は主戦派でしたが、同じ主戦派の周瑜が、

「他人の力を借りなくても曹操を倒してやる!」

という自信家だったのに対し、魯粛は、

「単独で当たるよりも、誰かと共同したほうがよい」

という慎重派だったのです。

魯粛は「故劉表の弔問」を名目に劉備を訪ねました。そして、

「呉と劉備が組めば、曹操を倒すことも不可能ではありません」

と劉備を説得し(実は劉備も同じ考えだった)、諸葛亮を連れて呉に帰ってきました。

諸葛亮を連れてきたのは、主君孫権に、

「劉備と組んで曹操に当たりましょう」

と説得するためです。

魯粛の思わくどおりに事は運び、赤壁の戦いは、

曹操対孫権・劉備

という構図になったのです。







おそらく「赤壁の戦」のことを言っているのだと思います。ただし魯粛は孫権に劉備との同盟を進言しただけであり、劉備の軍師だった諸葛亮が孫権のもとを訪れたというのが正確だと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿