三国志で劉禅が劉備の後継ではなく、弟の誰かがなってたらどうなっていたと思いますか?
もしもは歴史では禁句ですが、考えてください!
劉禅は劉備の最も古い側室(甘夫人)の子で長男で、弟が二人いますが母が不明だからこの二人も側室の子と思われるので格的には劉禅が最も上となります。
また、劉備死亡時に劉禅ですら17歳であり、弟達だともっと若い。
乱世にあって幼君では国はまとまりにくいでしょう。
上の弟の劉永は宦官黄皓が大嫌いでこれが元で宮廷の出入りを差し止められたと言う人物ですから、蜀末期の黄皓の専横だけは無くなったと思います。
下の弟の劉理は若くしてなくなり、その子も孫も若くして亡くなるという短命の家系でした。
彼が後を継いでいたら皇帝の交代が短い周期でやってきて、孫権以降の呉のように政情不安が起こって蜀は史実より早期に滅んだでしょう。
劉禅の義兄である劉封が死なずに後を継いでいた場合、劉備の実子でない為に何者かが劉禅らを担いで蜀は内戦になったでしょう。
劉封は劉禅より優秀でしたが劉備の実子でないというハンデは拭い去りようの無いものだったのです。
当然、蜀が内戦状態になればその隙に魏か呉に攻められ滅亡でしょう。
蜀漢は、「劉備の挙兵当時から臣下だった初期集団」「劉備の劉表寄寓時代に仕官した荊州集団」「元劉璋臣下の益州集団」の寄合所帯でした。初期集団は、劉備崩御と前後して年齢的関係で粗消滅…劉備崩御後の蜀漢は、荊州集団と益州集団が支えます。
臨終で劉備は、荊州代表の諸葛亮と益州代表の李厳を呼んで劉禪補佐を命じ、「顧命(遺言を伝えて後事を託す)の臣」とします。更に劉備は、諸葛亮に「君自ら取るべし」と言い、力関係「諸葛亮〉李厳(荊州集団〉益州集団)」を顕示しました。荊州集団は、關羽敗死で郷里を失い危機的状況…益州集団と均衡を保つ為、荊州集団の立場を強化する必要が有ったのです。
蜀漢は、益州に存在しながら荊州出身者が総帥を務め、その許で荊州集団と益州集団が協力する、存外不安定な政権でした(諸葛亮以後も総帥は荊州出身者)。
不安定な政権故、劉禪以外が即位した場合、何方の集団が勢力拡大を狙って劉禪を推し、内乱へ突入したと推測します。当然、魏呉は蜀漢の内乱に介入、「呉が支持する荊州集団(縁故)」対「魏が支持する益州集団(敵の敵は味方)」の図式が予想されます。
後々、両集団は魏呉各々に吸収され、益州に魏呉の国境線が出来たと思います。
劉備には劉禅しか息子が居なかったのでは…。
劉封という猛々しい養子がいましたが関羽を助けなかったから劉備に殺されたですよね。
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