三国志の劉備や孔明は魏(曹操)をどうしても倒す必要があったんでしょうか???
皇室?から簒奪して王位に付いたため、劉備たちは皇室復興のため魏打倒を目指すようですが、
魏に対しての戦力・国力と比べて圧倒的な差があるのに戦争を仕掛けるのは無謀すぎ。。
自国の領民のことを考えたら、和平交渉など全く考えてなかったんでしょうか??
「劉備<あんな悪いやつ(曹操)は倒さなあかんで!おいてめえらっ!みんな着いてこい!!!
関羽・張飛など<おおっ!親分、どこまでもついていきますぜ!!」
・・・こんな任侠もどきの理由で戦争なんかしてたら領民はかわいそうなんですが。。。
もし、劉備たちが和平交渉をしていたら曹操はそれに応じていたんでしょうか???
それと曹操は呉・蜀とも滅ぼして三国統一を狙うのは当たり前ですか???
まず,根本的に劉備は漢室の流れ(自称ですが)を組む者として世に出た人物です。劉備自身がどうかはわかりませんが,劉備の下に集まった豪傑たちを糾合して行くにはスローガンが必要になってきます。すると漢室に連なるというブランドを持つ劉備にとっては漢室復興を掲げざるへないのでは…。
それに対して,曹操はどうやったら世の中が良くなるのかを考えていた人物だったと考ます。だから,今現在の漢室に対してある程度の見切りをつけていたと思います。だから,漢室を守る者はどうしても排除していかなければならなかったんだと思います。
そうなると,劉備と曹操はお互いをそれなりには認めていたとは思いますが,相容れることとはない関係だったと思います。これが,劉備と曹操が対立を続けた要因の1つではと考えます。
また,孔明は考え方としては曹操に近いものがあると思います。合理的で法治主義というところです。しかし,孔明は幼少期の曹操による徐州での大虐殺を目の当たりにしています。たぶんその時,曹操という存在を認められなかったんではないでしょうか?
で,結局曹操打倒を掲げる劉備に従っていたともとれます。
劉備死後の戦いについては,seraph_angel_xxxさん が述べてらっしゃることと同意見ですね。征服者である劉備や孔明が占領地を治めるには共通の目標(ここでは,漢室復活・魏打倒)を示す必要があったからでしょう。
確か前出師の表に「益州のみ疲弊す」と言う言葉があったと思います。
ちょうど日本の昭和初期世界を相手にしてその一方の指導国家として立とうとした我が国がその劣勢を挽回するために中国大陸を支配して米ソに並び立とうとした考え方に共通するものがありませんか。無理が無理を呼び将棋で言うところの「指し切り」状態となって日本は敗戦を迎えるのですが、三国時代でも孔明でさえ支えきる事が出来ないのが時の流れというものなのでしょう。
劉備の場合、曹操に身を寄せていた時期に献帝から曹操討伐の密詔を受けたとされています。同族ということや義に厚い劉備のことですからこれを生涯貫いたのでは。
また、諸葛亮は出師表にあるように劉備の恩義を感じていたし、遺言で逆賊魏の討伐を懇願されていますから北伐せざるを得ない状況だったのでしょう。
曹操は劉備を英雄と認めていましたし、先に述べたよな献帝の策略がありますから和平より叩き潰す方を選ぶでしょう。
やはり一介の英雄であれば三国統一は成し遂げたいという野望は持っているでしょう。
冷たいようですが、所詮劉備・孔明等は、蜀出身ではないのです。住民の思いまで、気にしてはいなかったのでしょう。
和平は無理だったと思います。
三国志闘争の最終勝者の国、晋は長く栄えず北西の多種の遊牧民族が
攻めてきて五胡十六国時代で中華は争乱が続くわけですが
北西遊牧民の脅威は三国時代からすでにありました。
魏は馬一家を討伐する戦で辛くも勝ったものの
馬一党そのものは西方遊牧民ではなかったが馬の軍団は西方系の兵が
多く馬は西方にコネがあり魏の曹操は馬一党との戦いで
西方の脅威を感じていて早々に中華を統一して西方からの脅威に
備えるべしと考えていたかも。
馬の残党の馬超は蜀へ亡命しました、孔明は馬超から魏攻略の
何らかの示唆を受けて積極的に魏の西側からの遠征をしたのでしょう。
劉備が興した蜀という国は、漢朝復興を大義として、武将たちを糾合して出来た軍事国家です。魏を倒すために出来た国といってもいいでしょう。そのため、魏との国力差が大きくても、戦う姿勢を示さなければ、内部崩壊の危機にさらされます。諸葛亮が五度にわたる北伐をしたのはそのためです。勝つことよりも、内部崩壊を防ぐための戦いです。諸葛亮も魏に勝てるとは考えてはいなかったと思いますが、戦わなければ内乱が起きる可能性があり、消極的な戦いをせざるを得なかったと思います。
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