劉備は孔明がこなかったら有名にならなかった?
◆孔明がいなくても有名になっていました。
劉備が「有名になる」ということに関して、諸葛亮の果たした役割は殆どありません。
劉備が諸葛亮を自陣に加えたのは西暦207年です。
仮に、劉備が有名になった時期を下記の3つのタイミングで考えてみます。
①漢の「左将軍」という官職についた時点(おそらく西暦199年)。
②「漢中王」を自称した時点(西暦219年)。
③「皇帝」を僭称した時点(西暦221年)。
まず、劉備が有名になったタイミングが①だとしたら、孔明は全く関係ありません。
次に②ですが、
「天下三分の計」を先に提唱したのは諸葛亮ではなく魯粛であり、
江東勢の主導で行われたものです。
曹操から逃げる途中の劉備を当陽まで訪ねて、
劉表の代わりに三勢力の一角に据えてくれたのも魯粛です。
赤壁の戦いで実際に戦ってくれたのも周瑜などの江東勢。
この間、『三国志演義』などのフィクションでは活躍している孔明ですが、
実際の役割は殆どありません。
荊州南部を攻略したのは劉備自身の力によるもので、
荊州借用問題を穏便にとりなしてくれたのは魯粛のお蔭です。
益州攻略を御膳立てしてくれたのは張松と法正で、
漢中攻略と漢中王を自称できたのは法正の功績でした。
従って、②に関しても孔明の貢献は殆どありません。
最後に③ですが、
この禅譲を受けた魏への対抗措置の上奏文には諸葛亮も名を連ねていますが、
筆頭は太傅の許靖でした。
しかも、③は②による帰結でもあるので、孔明の功績とはいえません。
つまり、諸葛亮がいなくても劉備は有名にはなっていました。
孔明が活躍するのは、劉備が死んでからのことです。
孔明の本来の役割は、国を繁栄し安定させる事。この力に長けていた。つまり軍師ではなく政治家です。
三國時代、戦真っ只中で必要な軍略に長けていたのはホウトウ。彼が戦死した事が劉備の末路を決定づけましたね。
つまり、三國時代においては孔明はいなくても劉備は名を馳せていました。
ホウトウ亡き後、軍略も政治も孔明におんぶに抱っこで頼っていたのが敗因ですね。無理させ過ぎです。
むしろ逆ですね。
諸葛亮は劉備がいたから有名になれましたが、劉備は諸葛亮のおかげで有名になった訳ではなく、すでに名声を得て一般的に認知される有名人でした。
劉備の事跡をWikipediaなどでご確認下さい。黄巾の乱頃から頭角を現しはじめ、冀州平原国の相(郡太守と同格)になる頃にはすでに面識のない孔融ですら劉備を知っています。この頃にはすでに劉備が「漢の皇室に連なる人物」だと知れ渡っていたようで、公孫サン[王贊]・袁紹・陶謙・呂布・袁術・曹操・劉表、みな劉備を礼遇しています(戦ったりもしてますが)。また、特に曹操配下に多いですが、劉備の能力を危険視して早めに潰そうという動きも出ています。
諸葛亮と出会ったのはそれから後の話です。
分かりやすく例えるなら、すでに大人気の売れっ子ピン芸人が見ず知らずのズブの素人の元に3回も訪問して「コンビ組んでくれ」ってお願いしに来たのです。ズブの素人が来たから売れっ子ピン芸人が有名になった訳ではないのです。
多分そうでしょう。 弱小軍団(失礼)だった劉備ですが孔明を仲間にしてからは
よく勝っていますから。 でも孔明が仲間になる前から民には人気があったと思います。
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