三国志、荀彧について
三国志(特に演義)では、智将や参謀がたくさん登場します。
諸葛亮・・・劉備軍を立て直した
龐統・・・蜀を取った
周喩・・・赤壁で魏を破った
陸遜・・・荊州を取った
郭嘉・・・曹操序盤盛り上げた
司馬懿・・・諸葛亮から魏を守った
等々。
そのなかで、荀彧も同じくらい評価が高い参謀ですが、何をやったのかがイマイチ分かりません。二虎競食とクコロンドウって荀彧でしたっけ??具体的にすごさを教えて下さい。
これは正史の話になりますが、
・常に曹操の本拠地を守りぬいた。
一番危険だったのは呂布が攻めてきた時ですが、彼らの
攻撃を凌ぎ、重要拠点を守り抜きました。これは荀彧の
功績がかなり大きいです。これ以降も曹操が親征を行う
際は必ず本拠を守っています。
・曹操に対して常に政略的指針を示し続けた。
曹操が困ったときなどに助言を与え、戦略政略方針を
決定付けさせていたことが大きいですね。具体例では
献帝を迎え入れることや官渡にて曹操が退却しようか
迷っていた時に「味方が苦しいときは相手も苦しいもの」
と激励して踏みとどまらせ、戦局の転換を待つよう進言
している点などでしょうか。
・様々な人材を登用し、魏国発展に貢献した。
これはあまり知られていませんが、彼が登用した人物は
ほぼ全てが高位に上り、魏国発展の礎となっています。
その貢献度は計り知れない、と言えるでしょうね。
一人でできることには限界があります。その足りない部分
を多数の人材を登用することで補った、と言う点に荀彧
の凄さがある、と言えるでしょうね。
若いころから 王佐の才 と呼ばれ、主に曹操軍の政治を仕切った人です。
そして曹操の水攻めの計に反対して涙を流して相手の民を救おうとした話は有名です。
荀彧には7歳年上の甥で有名である荀攸がいたが、荀攸と衝突することもなかったので、コミュニケーションの取り方もうまかったのだと思われます。
最後は曹操と対立してしまいますが、曹操は荀彧が死ぬ間際に食カンを送ったとされており、曹操も荀彧に敬意を示しました。
荀彧は言っても言い切れないほど、たくさんのことを成し遂げました。
三国志の物語は、後漢末期からはじまります。後漢は、儒教の知識を軸に国家を統制したきた儒教国家であったので、知識人たちが、宦官と対立していく中で「名士」として、名声と力を得てきます。
荀彧は、その「名士」の代表格です。自分自身の能力ももちろん、先祖が大臣を歴任していることもあり、若いころから期待されていて「王佐の才」と言われていました。
①彼が、曹操についたこと自体が功績です。「荀彧が曹操陣営に入った」ということが、多くの名士を曹操陣営に走らせることになります。彼は曹操陣営に多くの人材を推薦しました。陳羣、郭嘉、戯志才、司馬懿、荀攸、鍾繇などですが、彼らがいることで各地の名士とのコネクションを通じての情報収集や政権の安定に多大に貢献しているのです。
②献帝の擁立を提案したこと。このタイミングが三国志ではものすごく重要で、曹操の人生最大の失敗は、父親を殺された報復としての徐州での虐殺です。これにより、諸葛兄弟や魯粛(ともに徐州出身)などの人材の恨みを買ったことがのちの中国統一の大きな阻害要因になりますが、さらに多くの人々から愛想を尽かされます。そのため起きたのが、参謀陳宮による呂布の担ぎあげと、本拠地での反乱です。なんとか鎮圧したものの戦力は激減し、このままでは多くのライバルにつぶされてしまうというところで、「後漢の権威」を味方につけるという方法を提示したのが荀彧です。これにより、曹操は「後漢の忠臣」という仮面をかぶることで再起を果たします。
③三国志の隠されたイデオロギー闘争の主役。三国志には、表として曹操、劉備、孫権(孫策、孫堅)という英雄がおり、国家としての魏、蜀漢、呉がありますが、隠れたテーマとして3人のイデオロギー闘争があります。
(1)曹操~後漢から帝位を譲りうけ、まったく違う王朝を樹立することで平和を回復する
(2)諸葛亮~徐州虐殺という悪行を行った曹操ではなく、新しい儒教国家を確立する(漢の復興とはそういう意味
(3)荀彧~後漢王朝の儒教統制を、名士を中心に立て直す
荀彧と曹操の対立は、このイデオロギー闘争の結果ですが、だからこそ荀彧は「王佐の才」なんです。あくまで荀彧達名士は、自分たちが中心になって新しい支配体制を確立しようとしていたので、これを曹操中心で行おうとしていたが、曹操自身に野望があるので、献帝を擁立することで、これを封じます。
この結果、後漢の滅亡は次の曹丕の代まで伸びることになります。
軍事・政治両面において曹操を良く補佐したということでしょうか。
後は曹操軍の人材登用についても大きく関わっており、郭嘉・司馬懿の両名は荀彧に推挙されています。
「曹操を序盤盛り上げた」のは郭嘉よりもむしろ荀彧の方です。そもそも郭嘉は荀彧の推挙で曹操に仕えるようになったワケですから、ひょっとすると荀彧がいなかったら郭嘉は表舞台に登場する事は無かったかもしれないですね。さらに司馬懿や陳羣も荀彧が推挙した人物です。人を見る目があったのでしょうね。
その他にも曹操が白馬の戦い(あれ?官渡だったかな?)を前に、エン紹にビビッって「退却しようと思うんだけど・・・」みたいな事を言った時に、激しくそれを諫めて決戦を勧め、結果勝利を得ています。戦局を見る目もあったのでしょう。
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