横山光輝の三国志第1巻をきのう読みました。涙が止まりません。。。。
桃園の誓いを見守る劉備の母がとても印象深かったです。涙なくしては読めませんでした。出会いのシーンだけでこれだけ盛り上がるストーリーもすごいですね。桃園の誓いはどこまでが史実で、どこからが創造なのでしょうか。。。
その辺りの事に関して、正史の記述にあることは
・劉備は漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫。
・祖父は県令。
・父が早死にしたために母と共に、蓆を織り草履を売って暮らした。
・屋敷の角の垣根に大きな桑の木が生えていて、
遠くから見ると車蓋(貴人が乗る馬車の屋根)のように見えた。
行き交う人々は皆、この木の只ならぬ様子を感じ、
この家から貴人が現れるだろうと言う人もあった
・宗家の叔父から我が子と同等の支援を受けた。
理由は「同門であるうえに尋常ならざる人物だから」
・豪傑俠客たちと交わりを結ぶことを好んだので、
若者たちは競うように彼に従った。
・馬商人は劉備に会って並の物ではないと思い、
多額の財貨を与えた。劉備はそのおかげで
人数を集めることが出来た。
以上、<先主伝(劉備伝)>
・張飛は若いころから関羽と共に劉備に仕えていた。
・関羽が数歳年長であったので張飛は彼に兄事した。
以上、<張飛伝>
・劉備が郷里で義勇兵を募ったとき、
関羽と張飛は劉備が募集兵に侮られるのを防いだ。
・劉備は平原国の相となると、関羽・張飛を別部司馬とし、
別々に部曲を統率させた。
・劉備は二人と共に寝るときは同じ寝台であり、
恩愛は兄弟のようであった。
・しかし衆人のいる集会では分別し、
関羽・張飛は一日中でも劉備の傍で侍立し続けた。
・劉備に従って東奔西走し、困難を避けようとはしなかった。
・劉備と死を共にすることを関羽は誓っていた。
以上、<関羽伝>
正史の記録をまとめ、それを基に考えると
劉備は旗揚げ前から関羽・張飛と交友がありましたが
その時の関係が「主従」な筈は多分ありません。
義勇軍「劉備団(勝手に銘々)」結成にあたって
組織運営の為、主従の関係になる必要がありますが
その時に主従になったのではないかと思います。
しかし、主従関係になったとは言え
依然、単なる主従ではないようです。
たとえ主人が一緒に寝ようと歩み寄ってきたとしても
家来は遠慮するのが普通でしょう。
だからといって不心得な家来かといえば、
一日中でも侍立するし、
困難を避けようともしないプロの家来ですし。
単なる主従を超えた関係であったと考えるのが自然だと思います。
とりあえず“義兄弟”とは記録にないので何ですが
後世、義兄弟説が出来るような特別な間柄であったのは
間違いないように思います。
99パーセント。俺は蒼天を先に読んだのであまり劉備に感情移入出来ないのでびしばし言います。
まず劉備が中山の子孫すら怪しい、血統でのし上がった感じ。その点曹操は官僚のコンプレックスでも頑張っていた。
桃園なし。虎牢関でてない、黄巾もでた記録なし。民からの人望は曹操の方が凄い。裏切りが劉備のモットー、例えば曹操を
裏切った、負けた、逃げた、強い奴に付いた、の繰り返し。関羽、張飛、超雲、は活躍があまり無い。関羽は曹操に恩すら
返してない(官渡でまったく戦果を挙げてない。)長坂は民が劉備を敬った、ではなく劉備が民を脅した、盾にした、偉いさん方
だけが逃げた。孔明より法正のほうが天才、曹操の方が天才。(こう言えるのも、孔明が指揮をして勝てたことは少ない、あと本を
作った程度、政治家としてもあまり目立たない)夷りゅうの戦いで、自分勝手な判断で部下の忠告を無視し、呉にぼろぼろ、
偽善者劉備、三国志のがん劉備、真のヒーロー曹操。蒼天をすすめます。
と感情移入している所もありますが、大まかですが、大体あってますし、演義のひいきぶりよりはマシだと思ってください。
確かに他の方も書いているように桃園の誓いそのものは演義三国志そのほかの創作ですが、核になるただの主従関係ではない友情の史実はあるわけですし、何より良くできていると思いませんか?
今はそれぞれただの貧乏人や素浪人だけど、世を正そうという志のある三人がお互い同じ志の別の二人とめぐり合い、これからは三人一緒にその志を成し遂げようという友情の物語。人を感動させて当然だと思います。
今生きている人(特に若い人)だって、何かやりたいけれど理解者がいなくて一人では力が足りず、悩んでいる、ということはままあるのではありませんか?
フィクションだけど物語を盛り上げる上質のフィクションではないでしょうか。
正史の関羽伝には、「先主(劉備)は二人と同じ寝台に休み、兄弟のような恩愛をかけた」とあり、また一時曹操の配下になった時に張遼に聞かれて、関羽は、「(劉備は)いっしょに死のうと誓った仲です」と答えています。
演義ではこのあたりの史実を参考に、桃園の誓いを創作したと思われます。
出会いのシーンというのも特に無く、「先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった」とあるだけです。
1巻目でそれというのも・・・w
横山三国志は当初、吉川英治が昭和13年に書いた大長編小説「三国志」の劇画化のつもりでした。
吉川はストーリーを盛り上げる名人であり、原作の「三国演義」にない、お茶、劉備の母、伝家の剣、悲劇の佳人、説教臭い和尚・・・といったストーリーアイテムを駆使して描いたんですね。
張飛が元土豪の家臣だったとか、関羽が寺子屋の先生だとかというのも、吉川の創造。
のちに柴田錬三郎が、吉川作品の序盤が余りによく出来ているので、幾つかの設定を剽窃しているくらいなんです。
で、吉川作品を読んでから、翻訳の「演義」を読むとめちゃくちゃあっさりしたスタートなのに拍子ぬけし、翻訳者に「お前の本は面白くない!」とクレームをつける人が続出したとか・・・。
まさに、吉川マジック!
吉川作品だと、義勇軍出発まで1巻の大半を使っているのに、原典の「演義」では、ほんの数ページですよ。
史実的に言えば、ぜ~んぶフィクションです。
「桃園の誓い」のような習慣は当時ないし、同郷の劉備と張飛は幼い頃から知り合いだった。伝家の剣も持っていませんし、芙蓉姫も実在しません。3人は義兄弟ではなく、最初からハッキリした「主従」でした。
結局、
・義勇兵として出兵
・馬商人から資金援助
・前漢皇帝家の血筋(ただし、最末席)
というのだけが本当。
でもまあ、野暮なことはいいっこなし。牛若丸と弁慶の「五条大橋」だって、毛利元就の「3本の矢」だって、川中島の「キツツキ戦法」だって嘘なんですから。
ストーリーを楽しみましょう。
ちなみに、吉川小説を原作としてスタートしたコミックですが、中盤以降「演義」ベースに変わります。吉川作品にミスが多かったこと(同じ人物が何度も死にます)、講談社からの無許可クレーム、日中国交回復によるあちらの史料の入手が容易になったことが理由です。
最後まで吉川作品だと、誤解している人が多いので・・・(連載中発売された、「横山光輝三国志事典」にも、はっきり「吉川作品のコミック化ではありません」と書かれています)。
われら三人、姓は違えども…
あとはうろ覚えですが、三国志最高ですよね!!
私も大好きです。
ご存知と思いますが、三国志は陳寿の記した正史と
羅貫中の遺した三国志演義があります。
横山光輝「三国志」は、三国志演義、特に吉川英治の影響を
大きく受けているものと思います。
桃園の誓いは素晴らしいエピソードですが、正史にはありません。
ただ、陳寿はのちの晋の役人でしたので、晋に都合の悪いことは書けない
状態であったと想像されています。
だから本当にあったかもしれませんね。
私はそう思って楽しんでいます。
これから、もっと面白くなりますよ!!
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