三国志に詳しい方に質問です。
劉備の周りの人物の上下関係というのはどうなのでしょうか。
劉備がトップなのは当然ですが、たとえば孫乾と関羽・張飛はどうなのでしょう。
文官武官というような役割分担で特に上下関係はないのでしょうか。
でも君主のご兄弟ということで孫乾は関羽・張飛には劉備に対するまでではないにしても、ある程度のへりくだりはあるだろうという気がします。
とすると関羽・張飛は孫乾を呼び捨てにしてもおかしくないでしょうか。
年齢が上であることから「殿(どの)」などの敬称をつけて呼びそうな気もするのですがどうでしょう?
ご意見を聞かせてください。
文官と武官の違いはあれ、役職付きならそれなりに地位の上下の違いははっきりしています。
個人的な親しさは考慮していたでしょうが、山賊とかではないのですから少なくとも「組織」としてはなあなあ的な事な馴れ合いはやっていなかったでしょう。
兄弟で部下と上司とか一族で上下関係とかは当たり前にある話ですから。それなりの「地位」にはそれぞれしてるはずです。
小説などとは違い、公式の場ではお互いの名前を呼ぶのではなく「役職」で呼ぶのが普通だったそうです。
軍人なら**将軍とか役人だと**使とかの官名で呼ばれますから、その場合は呼び捨てとは少しニュアンスが違ってくると思います。
会社で**部長と、部下が呼ぶのと同僚が呼ぶのと上司が呼ぶのでは同じ呼び名でもニュアンスが違ってくるのと同じです。
私的な場所で、親しい人間同士がお互いに呼び合う時は「あざな」で呼んだり「兄貴」呼ばわりもあったでしょう、余り親しくはないが同等かそれ以上の人間に対しては私的に呼ぶ時は**殿が普通だと思います。
まず関羽と張飛ですが、史実では「義兄弟」ではなく、劉備が二人に対して兄弟のような恩愛をかけた、とあるのみです。
また当時は士大夫(知識人)の方が武人より社会的地位が上であり、この上下関係は、ある意味官爵の上下より大きな力を持っていました。
その為、生粋の庶民上がりで「武人」にすぎなかった張飛は、「士大夫」である孫乾より目下の人物になります。
例を一つ挙げます。ある時劉巴(士大夫)の家に張飛が泊まった事がありましたが、主人である劉巴は張飛を見下し、一切会話しなかったそうです。劉巴曰く「大丈夫たるもの天下の英雄と交わるべきで、武人ごときと語る事など無い」との事。
張飛は目上の士大夫にはペコペコとへりくだり、目下の兵卒はむごく扱った、典型的な「強きを助け、弱きを挫く」というたけちゃんマン(古いですね…)気質の人間なので、孫乾ら士大夫に対してはさぞかし丁重に扱った事でしょう。
一方関羽は逆に「弱きを援け、強きを挫く」性格で、悪く言えばお山の大将気質を持っており、その上武人でありながら高い教養も兼ね備えていました。
その為目下の兵卒等に対してはやさしかったものの、おそらく庶民出身であった関羽より、目上であるはずの士大夫層に対しては強気に出ていました。
樊城に攻め込んだ際も、本来自分より目上である士大夫(麋芳とか)に対して全く敬意を払わず、挙句の果てには積極的に援助しない彼らに対して、「後で始末してやる」とまで言っています。その為麋芳ら士大夫は孫権にあっさり寝返った訳です。
結論として、「武人」達(張飛、馬超、黄忠ら)は「士大夫」である孫乾より、社会的な地位は低く、関羽一人は例外として、他の面々は孫乾に対して呼び捨てにする事など出来なかったでしょう。特に張飛は(笑)。
どのように敬称を付けて読んでいたかは解りません。
ですが、関羽、張飛は、かなりプライドが高く、
横柄な態度もよく見られたようです。
その証拠に
諸葛亮は、五虎将軍の中でも超雲をよく使っていました。
理由として、
関羽、張飛は劉備の義兄弟ということもあって言うことを聞かない時があり、
馬超は、外様のプリンスでやはり言うことを聞かない。
黄忠は、老人でこれまた使いづらい。
このことからも、二人は位が上の人でも呼び捨てまではいかなくても
態度は大きかったかも知れません。
0 件のコメント:
コメントを投稿