三国志演技、正史についての質問
劉備は蜀をとりその地の拠点としましたがその蜀では日射時間などの不足で穀物〔兵糧〕
が取れなかったらしいですが
漢中争奪戦で勝利した後に拠点を漢中に移動していた場合
兵糧問題は解決していたと思いますか?というか拠点を漢中に移動するということ自体は
可能だったんですか?
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孫呉は
堅パパ→孫策→孫権
というように君主が交代していますが
孫権が死んだあと急に劣っていったような感じがします
孫権の跡継ぎはどのような人だったんですか?
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劉備に従った武将〔義勇軍~死亡〕まで
で劉備を支えた武将、文官にはどのような人がいますか?
自分が思うに孫乾あたりは関羽、張飛、趙雲に隠れながらも
死亡するまで劉備の側で支えつずけているような気がしますが・・・
ずいぶん長文になってしまいました
どうか回答よろしくお願いします
まず、劉備(蜀)についての質問ですが、漢中を勝ち取っただけでは兵糧を確保できたとは思いませんし、地理上漢中を政治的中心にするわけにはいきません。というのも、劉備は蜀を平定したばかりで、蜀地全体が劉備に忠誠を誓うことは考えられないからです。そんな状態で対外的にも対内的にも出兵し難い場所に都を構えたら内部反乱が起きた場合、すぐに対処できないと思います。ですから、蜀の中心である成都に都を構えたと思います。
次に孫権の跡継ぎですが、一番有能とされる息子(長子)が早死したことから内紛になり、次期皇帝が決まるまでかなり揉めていたらしいです。陸遜ら有能な臣下も巻き込まれていたみたいですし。で、次期皇帝が決まると、その人を擁立した臣下(諸葛謹の息子)らが横暴し、殺す殺されの政治的混乱を招いてしまいました。最後の皇帝はかなり残酷な人らしく、度重なる遷都で国自体も滅ぶ寸前のようでした。
劉備に従う武将・文臣の中では、文臣は分からないが武将に「陳到」という人がいます。彼は劉備が豫州牧になった時から従い、蜀入りまで仕えたそうです。
益州は米の栽培が盛んで、綿竹の辺りは中原の5倍~10倍の収穫量だったという程豊かな土地です。ただ米は麦と違い、あまり日持ちしないため、兵糧に向かなかったのではないでしょうか。
漢中は張魯の頃はかなりの人口を抱えていたようですが、曹操による移住計画によって、劉備が漢中を平定したころはほぼ無人の状態だったと思われます。ここに数万の兵を置けばむしろ兵糧問題が悪化すると思われます。
ちなみに漢中の人口に関する記録
後漢書郡国志:戸数57,344・人口267,702(140年)
晋書地理志:戸数15,000(280年)
張魯伝:漢中の民は十万戸を超える。馬超の乱が起こると雍州の数万戸が張魯を頼ってきた。(~214年)
張既伝:数万戸を長安に移住させる(215年)
杜襲伝:8万人が洛陽・ギョウへ移住(215年)
和洽伝:漢中を無理に守るくらいなら、住民を移住させて放棄すべしと進言し、曹操はこれに従った。(215年)
空っぽですね。
漢中は対魏の前線基地で、蒋エンや姜維が駐屯していました。しかし、攻められれば真っ先に危険にさらされます。本拠地とするにはリスクが多い。
孫権は父や兄のように前線で活躍しないが、国を守る才はありました。守成の君主は地味ですが、孫堅、孫策なら領土を大いに増やしかもしれないが、逆に滅亡したかもしれません。
孫乾は使者として活躍し、永く劉備に仕え、入蜀後まもなく亡くなりました。他には簡雍、麋竺くらいかな?他には豫州時代から仕えた劉[王炎]エン。議論が巧みだが、実務の才はなく、劉備の側にいたのみ。
簡雍という文官がいます 彼は旗揚げのときから仕えており蜀をとる時に成都を無血開城させてます(^_^)
呉についてお答えします。実は、孫権というと、赤壁の戦いでの、迷いながらも英断を下すイメージが強いですが、
晩年になると、劉表と同じように、世継ぎ問題で、大失敗をして、呉を衰えさせます。一説には、孫権をいさめようとした陸遜さえ、
遠ざけ、悶死させたとあります。
孫権で意外なのは、曹丕などより、長生きしていることです。三国の君主の一人で、長生きしたのだから、老獪で大きな能力を発揮すればよかったのですが、残念がら、だいぶ衰えてしまったようで、呉の滅亡の一因になりました。
最後の跡継ぎは、乱暴で有名で、人を射殺したなどというような、逸話も残っています。
しかし、あとをついだときには、呉はずたずたな状況だったようです。呉滅亡後も、生き残りました。
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