2012年3月11日日曜日

三國志に関する質問です 劉備が制圧するまえの蜀は劉璋が統治していましたが、劉...

三國志に関する質問です



劉備が制圧するまえの蜀は劉璋が統治していましたが、劉璋の血縁にある人物及び、劉璋の配下であった人物の、


名前、字、血縁、経歴についてなるべく詳しく教えてください



張任

(なし)

落鳳坡にてホウ統を射殺、金雁橋では諸葛亮の計略に敗れ、張飛に捕えられ、斬首される。

遺骸は金雁橋のたもとに葬られた。



こんなふうにお願いします







【劉璋(りゅうしょう)】?~219年

劉焉の四男。字は季玉。

兄達が相次いで亡くなったとこもあり、

益州牧・監軍使者・陽城侯となります。

彼の重臣の張松・法正・孟達らが、

見限り劉備を益州の牧として迎えるべく画策します。

張魯や曹操らの脅威を感じて、が戦が不得手であった劉璋は、

張松らの進言を聞き入れて、

劉備を蜀に入れることを許してしまいます。

結局、劉備に蜀の地を乗っ取られてしまいます。

219年、関羽が呂蒙によって殺され、荊州が孫権に奪われた時、

劉璋はそのまま帰順して家臣となり、

孫権に益州牧に任じられますが、間もなく病死しました。



【劉循(りゅうじゅん)】生没年不詳

父.劉璋。妻は左将軍・司馬の龐義の娘。弟に劉闡。

劉備の益州攻略戦では雒城に籠って頑強に抵抗しましたが、

最終的に父と共に劉備軍に降伏します。



【劉闡(りゅうせん)】生没年不詳

益州牧・劉璋の次子。

劉備が益州を攻略した時、父兄と共に降伏します。

後に父と共に荊州の公安に移住しますが、

219年に関羽が敗れ、荊州が呉の支配圏になると孫権に帰順しました。



【劉焉(りゅうえん)】?~194年

後漢の宗室。字は君郎。

前漢の魯恭王・劉余(景帝の第4子)の末裔。

後漢の宗室という名門の血筋と、政治手腕によって中郎となり、

賢良方正に推挙されて司徒府に招かれます。

益州の牧となり、漢監軍使者を兼務し、陽城侯に封ぜられました。

晩年は、子供が相次いで亡くなるなど不幸が続き、

その心痛から悪性腫瘍を患い同年に死去してしまいます。



【劉範(りゅうはん)】?~194年

劉焉の長男。劉璋の異母兄。

董卓によって左中郎将に任命されますが、

董卓死後、李傕に対し反旗を翻します。

長平観で決戦に破れ、戦死します。



【劉誕(りゅうたん)】?~193年

劉焉の次男。劉璋の異母兄。

同母兄の劉範と共に長安に駐屯し、董卓によって治書御史に任命されます。

兄・劉範らと共に李傕に半期を翻しますが、破れ刑死します。



【劉瑁(りゅうぼう)】生没年不詳

劉焉の三男。

呉懿の妹を妻とします。

彼の死後、未亡人を劉備が娶り、後の穆皇后となります。

精神病を病み間もなく亡くなりました。



優秀な部下が多くいます。



【張松(ちょうしょう)】?~213年

字は子喬(永年)。張粛の弟。

益州の劉璋の部下として仕えますが、主人を見限り、

劉備を、益州の新たな君主として迎えようと画策します。

兄張粛に密告され、

怒った劉璋により張松とその妻子は処刑されてしまいます。



【法正(ほうせい)】176年~220年

字は孝直。

196年、孟達と共に益州牧の劉璋に身を寄せます。

劉璋の下では重用されなかったので、

張松と共に劉備の益州攻略に協力することになります。

劉備が益州の支配に成功すると、

その功績により蜀郡太守揚武将軍に任じられ、

中央の政治に諸葛亮と共にあたりました。

劉備が漢中王を称すると、

尚書令・護軍将軍に任じられますが220年に病死。

死後、劉備から翼侯を与えられました。



【孟達(もうたつ)】?~228年

字は子敬、のちに子度。父は孟佗、子は孟興。甥に鄧賢。

劉璋・劉備に仕え、蜀(蜀漢)の成立に貢献しますが、

関羽への援軍を拒否して、関羽は敗死、

その罰を恐れて、後に曹操に降伏し、

曹丕に寵愛されますが、曹丕死後立場が微妙になり、

諸葛亮の誘いで魏に対し謀反を起こしますが、司馬懿に討伐されました。



【黄権(こうけん)】生年不詳~240年

字は公衡。黄邕、黄崇の父。

益州牧劉璋により召しだされて主簿(帳簿係)となった。

212年、劉備の益州攻略に最後まで抵抗しますが、

劉璋の降伏に従って降伏します。

夷陵の戦いで別働隊の黄権は退路を断たれてしまい、やむを得ず魏に下ります。

魏でも厚遇を受けますが、最後まで蜀に義理を通しました。



【劉巴(りゅうは)】186年~?

字は子初。劉曜の孫、劉祥の子。

劉璋が劉備に降伏しようとした時これに猛反対し、

劉備が蜀の君主となった後は、劉備に仕えることを嫌って隠遁します。

諸葛亮仕官を請われ、劉備のその臣下となります。

劉備が漢中王になると尚書となり、法正が死去すると尚書令となりました。



【王累(おうるい)】生年不詳~211年?

劉備を益州に招こうとした時、城門に自分の身体を逆さ吊りにして諫言します。

劉璋は彼の言葉を受け入れなかったために、

そこで王累は縄を解いて、その門前で首を掻き切って自決しました。



【張任(ちょうじん)】生年不詳~213年。

益州蜀郡の人、劉璋配下の武将。

文武両道にたけた武将で、

劉備の入蜀の際、劉備軍に対し徹底抗戦をします。

しかし劉備軍に敗れ、雒城に撤退しました。

雒城にて劉循と共に籠城しますが、

金雁橋に撃って出た際、敗れ、捕虜となりました。

劉備は張任を高く買い、何度も配下になるよう勧めましたが、

張任は「老臣は二君に仕えず」と頑なにこれを拒否。

已む無く劉備は首を刎ねます。

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