なぜ劉備玄徳は皇帝を名乗ったんですか?
三国志の蜀。
一言で言うと、魏の曹丕に対抗するためです。
ご存知かもしれませんが、曹丕のことから説明します。
曹丕は曹操の後を継いで(※)、魏の国王となりました。その後、曹操も狙っていた皇帝の座を、同じように狙いだします。
そして、司馬懿(しばい)らの働きもあって、当時の漢の皇帝、献帝に皇帝の位を譲らせました。劉備は、それは譲ったのではなく、奪われたのだと考えました(実際は譲らされたという感じです)。
劉備の家来の諸葛亮は、劉備に皇帝を名乗ることを勧めます。これは、曹丕を正統な皇帝と認めないという意志表示になることなのです。しかし、劉備はそれを拒否します。漢王室を再興するのが目的なのに、自分が皇帝を名乗るのは曹丕と同じことになる。それでは逆賊ではないか、というのです。しかし諸葛亮は、このままでは、曹丕を認めることになります、などと説得しました。そして、劉備は皇帝を名乗ったのです。
曹丕に対する宣戦の気持ちを表すために、劉備は皇帝を名乗ったのです。
※ 嫡子であった曹昂が戦死したため、曹丕が曹操の嫡子となったのです。
曹丕について→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E4%B8%95
>劉備って後漢の皇族とは無関係の人でしょ?
赤の他人でしょ?
劉備は、中山靖王 劉勝の末裔であるという話があります。
まあ、本当かどうかは非常に怪しいですが、そう名乗っておいた方が、「朝廷の一族として国を立て直す」という大義名分を唱えられます。ですから皇帝を名乗ることもしたのです。劉備がここまでの力を得られたのも、皇帝の血を継ぐ人物だという証拠・・・という捉え方もあります。しかし、赤の他人と考えると、劉表や劉璋が一族なので、その土地を治めることを、一族から土地を奪ったようだからとためらった理由がなくなってしまいますね・・・。やはり関係のある人物だったと考えるべきですね(実際はどうだか完全には分かりませんが・・・。今となっては謎の昔の話です)。
>簡単に皇帝と名乗っていいの?
確かに皇帝を自称して失敗した人が約一名いましたね(袁術)。しかし劉備は、蜀というしっかりした土地と、関羽や張飛、趙雲、諸葛亮といった優れた人材も、しっかり劉備につかえていたから、心配はなかったのでしょう。それに、曹丕を討伐するという口実にもつながりますからね。
先に言っておきます。
私は劉備が嫌いです。
まぁ、簡単に言えば名乗ったもん勝ちなワケでして。
田舎の任侠者が反曹の人々を動かしていつの間にか大きくなり、その間に魏が誕生しまして、じゃあ自分は劉性だし皇帝を名乗って国を持とうや、ということです。
なんで…って、曹丕が後漢の皇帝から帝位を奪って即位し、しかも皇帝(劉協)が弑殺されたとの情報が伝わったからです。
後漢の皇族を名乗り、曹操に敵対していた劉備としては、後漢の滅亡と魏(曹氏の王朝)の成立を黙って見過ごせるはずがありません。ただちに劉協に対して「愍帝」と諡をして、後漢の正統を守るために即位しました。
なんでそれが劉備だったのか…ですが、220年当時すでに有力な皇族が劉備しか残っていませんでした。劉表・劉璋はすでに亡く、劉協の子や孫は魏の国内にいます。魏がすぐに手を出せないのは劉備だけでしたし、劉備は漢中王を称して魏に対抗できるだけの勢力も保持していました。
もっとも、劉協が弑殺されたというのは誤報であり、劉協は魏国内で山陽公に封じられて234年まで余生を送った後に死去し、魏王朝から「献帝」という諡をされています。
一方の劉備は223年に死去し、嫡子の劉禅が帝位を継ぎますが、遂に魏を倒す事も後漢を再興する事も叶わぬまま263年に魏に降伏して滅亡します。
ちなみに劉備は「劉協の帝位を継いだ」という体裁を取っていますので、国号は「漢」と称しました。蜀あるいは蜀漢というのは、後世に区別のために便宜上付けられた国名です。後漢も同様で、初代光武帝(劉秀)が漢(前漢)を再興した際に、国号をそのまま「漢」と称しました。
つまり前漢、後漢、蜀漢はいずれも断絶があるため区別されているだけで、劉氏の国家としては建前上は同一の国家という事になります。
【追記】
他の方々も追記されてますが、劉備の血筋の信憑性の薄さは後世の我々だから解る話です。後漢末の当時は誰もが劉備を皇族と考えそのように遇していました。
現代の知識(常識)で当時の状況を判断してはダメです。
ちなみに当時は劉姓はそれほど多くなく、大多数が漢帝室の血縁です。劉曄などもそうですよ。
最も直接的な「きっかけ」は魏の曹丕が皇帝を名乗ったからです。
このとき益州には献帝が殺害されたという報告があったため、
劉備は喪に服した後に漢の正統を(暫定的にではあるが)継ぐという大義名分で帝位につきました。
劉備は蜀という新しい王朝をたてたのではなく、あくまでも漢王朝の正統を継いだとしています。
(少なくとも表向きにはそういうことにしています)
死に体の漢王朝でありましたが、魏王朝の存在を認めないというアピールでもあったことでしょう。
黙って見過ごすだけで、魏王朝の正当性を認めてしまうことになってしまいますから。
逆に言えば魏王朝が存在しなければ蜀漢王朝もまた存在しなかったのです。
同時に、魏晋の立場からすれば「益州の劉備という男が蜀で帝位を僭称した」ということになるわけです。
勿論劉備自身の野心、および譜代の家臣からの突き上げといったものも当然あったでしょう。
我々は過去の歴史の出来事にしばしばシンプルな理由づけを求めたがるものですが、実際そう単純なものではなく、事由は一つではないものです。分かることは前後の事実関係があるだけです。
【補足について】
劉備は、後漢の皇族・中山靖王 劉勝の末裔です。劉勝は非常に子沢山であったとされ、その末裔といったところで非常にあやふやだというのが実際のところです。しかし重要なのは、劉備が後漢の宗族であることの真偽ではなく、それを周囲に認めさせている・またその力があったということです。劉備が帝位についたときも、やはり「大王は中山靖王の後裔にましまし~」というくだりが臣下の奏上文にあります。赤の他人というほどでもないが、素性がそれほどはっきりしているわけではありません。既に他の有力な皇族はないということもあり、乱世のドサクサでもあり、その正当性を押し通せたというところでしょう。
魏の曹丕が漢の献帝から帝位を禅譲されたわけですが、この時蜀には献帝が亡くなったと誤報が流れ、漢室を継ぐためと称して帝位につきました。また、配下からの突き上げもあったとされています。帝位を襲わないのであれば、今まで何のために付き従って来たのかと。
ここまでは建前です。劉備の心理面を考えると、関羽が敗死し、荊州を失う。若い曹丕が帝位につき、呉の孫権も壮年。自身は老境にさしかかる。劉備の中に焦りがあったことは明らかです。献帝崩御の報をよく確かめもせず、安直な道に飛び込んだということでしょう。
補足拝見。
それをいっては身も蓋もない。景帝の裔孫ということで活動してたわけで。劉備以外の有力な皇族も皆無な情勢、漢室復興の大義を掲げて矛盾しない生き方は他にないでしょう。それに俊巡はしたでしょう。しかし上にあげたようにやっぱり焦りがあって性急に動いたのかと。
個人的には献帝崩御の報を精査するか、献帝生存の確認後に帝位を降りるかすれば良かったと思いますけど。しかしそれもなかなか難しいでしょ。
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