三国志。劉備玄徳には、何人奥さんがいたのですか?
赤壁の乱の頃には2人いたと思います。
そのあと、周愉公謹の妹(尚香)、孫権の娘と結婚し
一度にということではなく、4人の妻を娶ったのでしょうか?
甘夫人(=芙蓉姫? 側室)
糜夫人(糜竺の妹 )
孫夫人(=尚香 孫権の妹)
穆皇后呉氏(呉懿の妹)
名前がわかってるのはこれぐらいですかね。正妻三人側室一人。
関羽や張飛は息子の年齢からして早くに結婚してるようなので、
劉備も、徐州時代まで未婚とは思えませんね。
劉永・劉理らの母もおそらくこの4人以外でしょう。
もし穆皇后の子なら、側室の子である劉禅より劉永・劉理らのほうが跡継ぎとして相応しいってことになりそうですからね。
劉備の正妻が記録に登場するは徐州時代からで、糜夫人(糜竺・麋芳の妹)を正妻に甘夫人を側室に向かえています。
甘夫人は長坂の戦いの後まもなく亡くなり、糜夫人の死亡時期は不明(演義では長坂の戦いで井戸に身を投げる)ですが、劉備が蜀を得るまでに亡くなったと推定されます。
ちなみに劉禅の生母は甘夫人とされます。
劉備に正妻がいない事を知る呉の孫権は、妹(孫夫人・尚香)を劉備と結婚させます。
正史では理由は述べられませんが、劉備が蜀を得た頃に孫夫人は呉に帰国し以降の動向は不明です。
正史の注釈によれば、孫夫人は劉禅を連れて呉に帰国しようとした為、趙雲が劉禅を奪還しましたが、これが元で劉備との関係は冷え切ってしまい呉に帰国したといいます。
こうして再び劉備には正妻が居なくなりますが、劉備が漢中王に即位するに当たって王妃が居ないというわけにはいかず、呉懿の妹(後の穆皇后)が正妻となります。
穆皇后は劉備より20年ほど長生きし皇太后となっています。
尚、劉備の子のうち母親がわかっているのは劉禅のみで、劉理や劉永の母が誰なのかは不明です。
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