2012年3月13日火曜日

三国志について

三国志について

三国志について質問です。

219年に劉備は漢中王に即位していますが、本来漢中王は「漢中郡」の王であり、高祖劉邦の「漢王」も本来は漢中王の略称であったと聞いたことがあります。



つまり、劉邦が帝位に就いた際も、例えば韓信を斉王・楚王に封じたりしても、漢王に封じることはないのは、漢中がいわゆる皇帝の直轄領であり、漢皇帝は漢王もある意味で兼任しているからではないでしょうか。それならば、後漢の献帝が劉備を漢中王に封じるのは、ある意味実質上の禅譲とは言えないのでしょうか。







漢帝国の獻帝[=献帝]劉協が自身の意志で、劉備に「漢中王」と言う称号を授けたので有れば、質問者様が仰る仮説が成立する可能性が出てきます。

が、建安二十四年(西暦二一九年)、漢中の定軍山での戦いで曹操を退けた劉備は、勝手に自身を「漢中王・大司馬」と称します。此の「漢中王・大司馬」は、獻帝から賜った訳では無く(当時、漢帝国の百官は、曹操が完全に抑えていた。喩え、劉備に禅譲したい、と言う意思が獻帝に有ったとしても、実現は不可能)、群臣から推挙された体裁は整えていますが、完全に劉備の自称です。



「漢中王」は、高祖劉邦が皇帝に即位する際に名乗った由緒有る称号・封号です(故に、質問者様が推察する通り、劉邦以外の人物が、称号「漢中王」を持たない為の配慮が有った可能性は、充分考えられる)。「大司馬」は、光武帝劉秀が皇帝に即位する前に持っていた官職です。

劉備は、「漢中王」と「大司馬」の二つを同時に自称する事で、自身が漢王朝の正当な後継者で有る事を宣言したかった、と思います。実際に劉備は、古式に則った祭壇を築き、漢王朝の復興を目指す上表文を読み上げた後、載冠します。



孫權[=孫権]は、黄初二年(西暦二二一年)、魏帝国の文帝曹丕から「呉王・大将軍・荊州牧」の位と九錫(皇帝から賜る九つの恩典)を賜り、此れを保証として皇帝に即位し、呉帝国を建国します。

一般的には、孫權の様に、前政権又は現政権から賜った殊礼(特別な臣下に許される優遇措置)を保証とし、自身が建てた政権の正当性を主張します。劉備の場合、其の様な物は無く、漢帝室に連なる自身の血統を頼りとし、諸々の行為(漢中を制した後、「漢中王・大司馬」を自称。皇帝に即位し、蜀の地に漢帝国を建国)を実行した、と思います。








歴史上の「三国時代」についての質問なのか、小説の「三国志演義」の内容についての質問なのか、不明ですね。どうも「三国志演義」についての質問とお見受けしますが、あれは、創作なので、小説の中身を論じても意味のないことです。夫々が勝手な感想を言いあっているだけですね。



後漢が220年に滅び、「魏」が興り、続いて「蜀」「呉」が起こります。

歴史と小説とを混同しないようにしたいですね。

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