三国志のことで………劉備の跡を継いだが、愚かだったため国を滅ぼしてしまったと悪印象な劉禅ですが、だれか劉禅の良い行為や出来事を知っている方いませんか?
劉禅は内政向きの人物だと思われます。
皇帝になってからしばらくは、孔明や蒋エンや董允といった内政に秀でた人物を使いこなしてしばらくは平穏だったと思います。
むしろ蜀の国力を衰退させた原因は、国力が数倍以上開く大国魏に何度も山越えで戦を挑んだ姜維にあったとおもいます。
劉禅って、それほど無能な人物とは思えないんですよね。
何と言っても、蜀が魏の鄧艾将軍に攻め込まれた時、
焦土作戦をとることも出来たのに、そうせず、
あっさりと降伏して民衆に被害を与えなかったのは
十分に評価できますよ。
私は彼を、日本の、最後の将軍こと
徳川慶喜に重ねることがあります。
もし彼が大政奉還なんかせずに、
薩長に対して徹底抗戦し、日本を焦土にしていたら
それこそ欧米列強の思うつぼだったでしょう。
彼の思惑はどうあれ、流血を最小限にしたことは
その後の日本を考えれば、最高の政治的判断だったと思います。
同様に、劉禅の引き際も実に見事だったかと。
戦争をする、と言うことは、民衆に多大な被害と負担を強いる行為です。
そういう意味で、諸葛亮は、私はあまり高い評価をしません。
いくら先帝の遺言とはいえ、たかが漢王朝の復興ごときに
民衆に多大な負担を強いることは正しいとは思えません。
私は、諸葛亮が勝てなかったのは
民衆が漢王朝の復興など望んでいなかったことの証明だと思っています。
劉禅はそれを分かっていたのかも知れません。
劉禅の評価に「まわりあ良ければ優秀で周りが無能だったら無能と染まり易い人物」だったともいわれています
蜀の大黒柱である諸葛亮亡き後約30年も国を保ちました。
蜀は人材面、国力ともに魏、呉に劣っていましたから、30年も耐えたのは快挙でしょう。
またとても温厚な性格だったようです。
人としてはとてもよい人だったと思います。
諸葛亮が亡くなった際、これで災いの種がなくなりましたね、
とか何とか言った家臣がいたそうですが、この発言に激怒し、
即座に処刑した、と言う逸話があります。
また諸葛亮が廖立の非を上奏したのを受けて発した詔勅で
は、劉禅が死刑にするのは忍びなかったという理由で流刑と
されています。
実は蜀が本当に衰えるのは滅亡の数年前の話であり、それ
までは内地で大規模な反乱等も無く、奸臣がはびこる、と
いう事態も発生しませんでした。よく黄皓を信任して国が乱
れた、とありますがそもそも宦官の全てが悪であった、と断定
することはできませんし、何より本国の政治家達ともある程度
持ちつもたれつの関係で政治を行なっていたことより、劉禅
一人の責任に帰することもできないでしょう。
最後滅んだから悪く言われすぎていますが、配下を信じ、彼
らに全てを任せる、と言うのは半端な器量では不可能な話で
あり、40年以上安定した統治を行なった実績は評価すべき
だと思いますね。
孔明がどんなに怒っても亜父と言って慕ってました。
お互いの信頼感は強かったように見えます。
ある意味孔明が好き勝手にできたのも、劉禅がおおらかな性格だったおかげ。
後顧の憂いが無く前線に赴く事が出来たのは劉禅があくまでも人を裏切る事を知らない性格の良い人だったといえる。
司馬仲達は活躍すぎると曹一族から目を付けられるからびくびくしてましたね。
国力が他の、魏、呉より劣る事を知っていたから、このまま戦い続けると勝っても負けても、苦しむのは民だということを、すぐに理解したから、降伏したのだと思います
知も徳も有った人物だと思います
0 件のコメント:
コメントを投稿