三国志を読んで思ったのですがなぜ曹操は劉備を最後まで殺すことが出来なかったのでしょうか?意見をお願い致します。
それは、劉備が皇族だったからです。
曹操は後世の印象的にはどうであれ、立場上は亡くなるまで一貫して漢王朝の臣下であり続けました。人臣たる身で皇族を害するなど、当時の倫理ではあってはならない事でした。
劉備は今でこそその血筋の不明瞭さを指摘されていますが、本人は中山靖王の後裔を名乗り、当時の世間一般ではそれは事実と受け止められていました。もし曹操が劉備を殺していれば、保守的士大夫層の強烈な反発を受けていた事でしょう。また劉備が曹操の元にいた時期は、劉備が呂布に敗れて庇護を求めていた時期でもありました。そのような状況下で劉備を殺すのは、一に皇族殺しの大逆の罪、二に困窮して頼ってきた弱者を殺す非道の罪を得ることとなり、曹操にとって百害あって一利なしです。
曹操は漢の皇族を誰一人殺していませんね。献帝とその皇子たちや劉備はもちろん、劉曄や劉放は重く用いており、劉ソウ[王宗](劉表の後継者)も降伏したあと青州刺史に任じています。唯一、劉焉・劉璋親子のみは漢王朝に対する反逆行為があって討伐の対象でしたが、結局かないませんでした。
曹操の同時代に命を落とした皇族は少なくとも三名いますが、劉虞は公孫サン[王贊]に殺され、劉岱は青州黄巾軍と戦って戦死(曹操は青州黄巾軍を降して仇を討っています)、劉岱の弟の劉ヨウは孫策に敗れて豫章に逃れたあと、そこで病死しています。
そんな訳でなかなか殺しにくい劉備ですが、実は1回だけ殺せるチャンスがありました。それはいつかというと、劉備が徐州刺史の車冑を殺して反逆した時です。
車冑は後漢王朝が正式に任命した徐州刺史なので、これを殺すのは後漢王朝に対する反逆行為です。しかも庇護してやっていた曹操の元を逃げ出しての行為でしたから、捕らえていれば何の憂いもなく殺せていたはずです。
思えば劉備の逃げ足も、あの時が最速でしたね。
はじめは田舎出身のうだつのあがらない男
から始まり、
影響なさそうだから放っておいてもっと緊急を要する事柄に目を向けていたらじわじわと力をつけ始め、
ここらで摘んでおくかと思えば意外なしぶとさと幸運に負け、
後にいう赤壁で大敗し、手が出せなくなってしまった
かなりざっくばらんですがこんなイメージを抱いています。
あとは、ともかく劉備が劉姓であり漢皇族の末裔を主張していたことも理由の一つかと思います。
曹操は存命中帝位につくことはついぞありませんでしたし、擁立している献帝にも、お飾りではありましたが董卓のように廃帝、あるいは禅譲を迫ったりせず、魏王に即位しても大事に保護していた様子からしても、皇族へは明確に線引きしていた感があります。
「自分は文王たればよい」
(周の文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)
という発言があったともいうので、少なくとも自分が生きているうちは、あくまで漢帝国ありきの支配を念頭においていて、それゆえに皇叔を自称する劉備の勢力への手出しは多少遠慮する部分もあったのかなあと思っています。
また、当時蜀漢が健在のころから道義的に素晴らしい国という意見があったようなので、恐らく蜀漢建国前からそういった風潮はあり、その国民感情を無視できなかったところもあったかもしれませんね。
殺す必要なかった
殺そうと思ったときには殺せなかった
殺そうと思えばいつでも殺せる、と思って放っておいたら、いつの間にか力をつけてしまったからではないでしょうか。
戦場での劉備の危険察知能力はハンパじゃないですからね。
最後の夷陵の戦いも惨敗はしたものの劉備自身はキチンと
逃げ延びている。
そう言う部分での戦術眼、と言ったら良いでしょうか。勝ち目
が無い、と判断した時の退却までの動きは非常に迅速です。
負け続けの敗将のイメージがありますが、戦局を見極める眼
は誰よりも持ち合わせていたと思いますね。
曹操の下に劉備が転がり込んできた時は単純にそう言う相手
と曹操が見ていなかっただけですね。大体、帝を手元に引き
入れたとは言え、この時期の曹操はまだ漢帝国のイチ家臣に
過ぎません。
多少位の上下はあれども、共に漢を守り立てていかないといけ
ない相手を殺害できるはずがありません。董承達が処刑されて
いますが、彼等は己の利権を守るために邪魔な曹操を廃そうと
したことが原因ですしね。
劉備もあのまま許昌にいたらどうしようも無かったかもしれません。
危険な人物とわかっていても大義名分がなければ殺害出来ませんし、後の戦いでは全て逃げられてます
単に殺せなかったからです。劉備が曹操の下にいるときは、曹操に殺す気が無かった。劉備が徐州で独立すると、徹底的に叩きのめすが結局捕捉出来ず。劉備が汝南を荒らしまわったときも、打ち破りはすれどサクッと逃げられた。荊州攻めのときも軽騎兵を強行させてまで劉備を追うが、劉備の必殺技「家族を見捨ててでも逃げ延びる」の前に捕捉することが出来ませんでした(このときは劉備本人よりも江陵の占領を優先した)。
この後は劉備も力を付け、漢中を巡る争いで一度だけ矛を交えますが、結局曹操は劉備に勝てませんでした。劉備は逃げると決めればいかなる手段を用いても逃げようとする男で、しかも常に逃げ込む先に困らない喰えない男です。小難しい理由など無く、「殺すことが出来なかった」だけだと思いますよ。もっとも、仮に劉備を捕らえたとしても、本当に殺すかどうかは結構疑問が残りますけどね。
小物だから放っておけば良いと考えたんでしょう。(殺ろうと思えばいつでも殺れるそれよりも他にやるべき事があると考えたんでしょう)
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