三国志で、劉備が死ぬ間際に、孔明に「息子がいい出来ならよく補佐してもらいたい。駄目なものだと判断したら君が君主となってくれ。」は有名な場面ですね。
これが伏線となって「出師の表」が昔の日本人男子は、涙を禁じえない文となるわけです。
しかし、呉でも似たような話があるようですし、三国志は他エピソードの挿入が集まった伝説話ともいえるし、本当かどうか(盗用も含む)。
実際そうだったのか疑問に思えてしまいます。
正史にも書かれている話のようですね。劉備が死んだ時、劉禅は17歳。温室育ちで才気が見えず、あまり劉備に期待されていなかったのではないでしょうか。かといって跡継ぎがいる状態で諸葛亮に国を渡すのは陶謙や劉表と同じになってしまう(劉備は彼らの死に際の「国を譲る」という申し出を断っている)のではっきり譲るとは言えなかったのでしょう。
実際に、劉備は「孔明、お前が今後の蜀を纏めるのに相応しい」と言ったと思います。性格的にも無理がありません。
しかし、孔明は飽くまでも君主を補佐して天下統一という大義名分に感じ入って長年一緒に居たわけです。
彼の性格からすれば、「いや、玄徳様。私は貴方の志に感じ入って、ここまで忠節を尽くしてきたのです。貴方の志を継ぐのは息子である劉禅殿です。それならば今後とも、貴方に仕えているのと変わりありませんから、ご安心を」と言うのが自然ですね。
筋金入りの三国志の作家や研究家は、正史一辺倒ではなく、中立の書物、演義と照らし合わせて一致した事柄から分析開始するのが基本中の基本は言うまでもありません。
私は趣味ですが、正史やどっちつかずの三国志の本、民間の演義と一通り読んでの意見ですが参考に。
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