三国志で劉備が蜀を建国し、三国が鼎立した間に劉備と諸葛亮が兵を率いて魏を攻めなかったのはなぜですか?
また攻めることはできたのですか?
そしてもし攻めていたら曹操を滅ぼすことはできましたか?
劉備と諸葛亮が、と言うのにはいくつかの時期があります。まず益州を
取った直後は漢中が曹操に抑えられており、しかも張コウによって侵攻
を受け、住民が移住させられていた。国内は反乱の噂が毎日のように
あがり、とても北伐を行なえる状況ではなかった。
漢中制圧後、漢中は住民も物資も魏が持ち去っており、物資集積所
としての機能を果たしていなかった。蜀としてはまず漢中の機能を復帰
させる必要があり、北伐を行なえるだけの余力はなかった。
荊州失陥後は北伐の際に魏の目をひきつけることの出来る荊州奪還
が主目的となっており、北伐を行なう余力はなかった。
ちなみにどの時期でも魏は劉備を一定以上の評価をしていました。彼が
生きている以上魏の警戒は解けず、逆に魏を討伐するのは困難だったと
思います。だからこそ劉備死後の初めての北伐は魏が油断してた最大の
チャンスだったと言われるのです。
蜀建国とは漢中王ですか?皇帝になってからですか?
皇帝になったのは曹伾が魏を建国したから・関羽の仇を取るため
で、まず、劉備の視点が仇の呉にしか行かなかったのでしょう
漢中王になった時は、これはあくまで自分の意見ですが関羽に襄陽を攻めさせています
これは曹操の目を益州に向けさせないためでもあると思います
演義で言うほど華麗に漢中争奪戦は勝っていないので蜀の被害も大きいと思います
ちなみに、諸葛亮の北伐と劉備の北伐とで比べたら劉備の北伐の成功率の方が何倍も高いと思います
逆ですね。魏、というか曹操を漢中から追っ払うことが出来たからこそ蜀漢という国を興せた、とするべきかと。つまり魏との戦いには一定の目処が付いていた。ついでに言えば劉備は曹操に勝って漢中王を名乗ると、今度は関羽を北上させ荊州の曹操軍をを脅かします。益州の安全は確保されたので今度は荊州を、という考えかもしれません。巴蜀平定から孫権との荊州南部を巡る小競り合い、そして漢中の攻防。戦続きで兵力的・国力的に益州の軍は動かせなかったのかもしれませんね。
益州からの同時侵攻がれば魏を倒せたか否かは分かりませんが、関羽の北進が曹操が死んだ直後であれば魏はさらに苦戦したでしょうね。ただ呉は荊州奪取が悲願、安全保障上是が非でも欲しがっていたんで、結局関羽が攻め上がった直後に荊州を奪いにかかっていたと思います。
まず劉備は漢の再興が目的、諸葛亮はそれを実現するために三国鼎立を考える。 攻めることが出来たかに対しては狭い領土、不毛の土地、国力が足りなく攻められない、だから南蛮を攻め国力を増強している。劉備の生きている間には無理だったでしょう。
張飛、劉備亡き後、諸葛亮はキョウイ等と共に攻めてますが漢中までです。 所詮勝つことは願ってはいなかったのだろうかと。呉との協力が完全であれば倒せたかもしれませんが。それだけの人材もその頃には残ってなかったのも事実でしょう。三国鼎立こそが孔明最大の計略です。彼無くしてこの時代は語れません。 私見です参考ほどに。
蜀建国とのことなので、
221年(劉備即位)後のことだと思います。
魏を攻めなかったのは、
劉備の攻撃対象が呉になっていたからでしょう。
理由は関羽の仇討です。
結果は大敗北(夷陵の戦い)でしたけど。
諸葛亮などは反対し、討つべきは魏だと主張してたと思います。
(正史にどこまできちんと記述があるのか知りませんが)。
仮に呉への遠征軍を魏に向けたケースを想定してみても、
滅ぼすどころか、負けない戦をするのが精一杯だったのではないでしょうか。
それほど魏は強大なのです。
ちなみに劉備皇帝即位の時点で、魏は曹操が既に亡くなって、
曹丕の代になっています。
蜀を建国したときは、まだ国内が安定していなかつた為に戦いはできなかったです。
攻めていても、魏は圧倒的な戦力をもってましたから、必ず負けてたと思います。
人口、耕地面積も蜀、呉をあわせても差がありすぎました。
厳密には、三国と言うより一強国二弱国の方が正しい。なので現状維持が精一杯だったと考えます。蜀と呉の同盟は何よりも大事だったでしょう。魯粛がいれば関羽を討たずに共同で魏を攻めていたはずです。それでやっと善い勝負となります。
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