2012年3月11日日曜日

三国志の登場人物の劉備について質問です。 劉備は演技では、人徳の鏡みたいな人物...

三国志の登場人物の劉備について質問です。

劉備は演技では、人徳の鏡みたいな人物で善人君主って感じがしますよね。

史実では泥臭くて打たれ強い感じな人物だと思っています。

どちらの劉備も好きなのですが、

少し分らない部分があります。

劉備が自分を慕う民とともに曹操から逃げる、長坂の戦いってありますよね。

この民達は実は兵士の家族で劉備が兵士を逃がさないために人質に取ったというのを聞いたのですが本当ですか。

私は純粋に彼を慕う民達が劉備についていったと解釈しているのですがそれの方が正しいですよね。

また、その民達はその後どうなったのでしょうか?

演技では何かぼかしているのでちょっと気になります。

もう一つ疑問があるのですが、劉備をよく任侠のヤクザの親分だと言っている人が沢山いるのですがどうなんでしょうか?

曹操が革命家、孫権が江南地域の豪族が寄り集まって結成された暴力団の若手頭、劉備はヤクザの親分だと言ってる人がいてました。そうだったら、私の大好きな関羽、張飛、超雲、孔明、黄忠、馬超やその他のメンバーも任侠集団って事?ちょっと違いますよね。詳しい方、どうか教えていただけないでしょうか。







長坂の戦いでは民衆を人質に取ったという説も存在します。民衆が劉備を慕っていたという話も存在しますし、劉備を慕っていたというより曹操を恐れて逃げたという説もあります。記述からわかるのは劉軍が民衆と共に逃げたとう事のみでどれが真実なのかまでは残念ながらわかりません。そしてわからないからには自分がこうだと思っている事が正しいと思えばいいと思います。私もそう思っています。



民衆がどうなったかも正確なところはわかりませんが、追いつかれ殺された人々もいれば無事に逃げた人もいるという事です。ちなみに劉備について行かなかった人も大勢いると思われます。



劉備がやくざの親分といのは半分正解で半分間違いです。やくざと言うと日本のそれを連想してしまいますが、正確には侠(きょう)といわれる集団を率いていたと言われます。侠とは派手な恰好をしたり音楽をガンガン演奏させて踊ったりする男伊達集団で、どちらかと言えば愚連隊です。地域の問題ごとを解決したりするトラブルシューター的一面もあり(暴力も使った)、その見返りとして金を受け取る事もあったそうなので、そういう部分がやくざ同じ行為なのでやくざの親分と言われてるのではないかと思います。



曹操の革命家はそうだと思いますが、孫権の暴力団の若手頭というのはちょっと違うとおもいます。豪族の寄り合い所帯と言いうのは事実で、孫権軍は孫権の配下武将や兵と言うより武将の私兵集団でした。内政担当というイメージがある張昭でさえ自分の兵を持ち、実際に指揮して戦った事があるほどです。これは江南地域は昔から豪族の力が強く、太守よりも力を持っていたためです。つまり孫権が豪族達に力を貸してもらうという形で成り立っていたのが孫権軍なのです。暴力団と言うわけではありません。



ちなみに旗揚げ時から一緒にいた関羽や張飛は侠と言えますが、趙雲、孔明、黄忠、馬超など後に加入した武将は侠ではないです。

0 件のコメント:

コメントを投稿