昔、三国志で劉備が逃走の際に邪魔になるからといって子供を投げ捨てたという話を聞きました。
儒学?では親の子殺しは、この親殺しより罪が軽かったように聞いたのを覚えています。
儒教の国ではどちらも無いように書かれてる人が居ますが本当の所はどうなのですか?
それは三国志ではなく史記の話です。
劉備の先祖である漢王朝の始祖、高祖劉邦のエピソードですね。
儒教では、子供は親の為に死ぬ事が出来てこそ最大の善行であるとされます。
劉邦がやったことは子供である劉盈(恵帝)の代わりに善行を施してやったという事になり悪いことではないとされています。
ただ、やっぱり人としてはどうかと思いますね。
皇帝になった後の劉邦は猜疑心の固まりになり重臣を次々と粛清していったとされていますから、やっぱり人として何かが欠落した人物だったのでしょう。
また跡を継いだ恵帝は、自立できず母親の呂后の言いなりで政治を怠り酒毒のために23歳で早世しました。
この事件がトラウマとなり、自分の意見を出せない温和しいと言うより惰弱な人格になってしまったのかもしれません。
追加】
ああそいういえば三国志演義の「長坂坡の戦い」で、劉備は長子の阿斗(劉禅)を投げ捨てるエピソードがありますね。
ただこれは逃走の際の邪魔だから捨てたという事ではなく、敵中に置き去りになってしまった阿斗を趙雲が命懸けで救い出したところ、劉備は「忠義の家臣を死地に追いやるような者は我が子でもいらぬ」と投げ捨て趙雲の無事をこそ喜んだという話です。
まあつまりは、わが子が助かったことより忠臣が助かった事を喜んでいるんだぞという事を示したパフォーマンスだったわけです。
ちなみに劉邦のエピソードは、
最大のライバルだった項羽の本拠地・彭城を60万の軍勢で占領できたため油断してしまい、項羽軍5万の奇襲で木っ端微塵に粉砕され命辛々逃げ出した時に起きた話です。
息子の劉盈と娘の魯元公主を共につれ夏侯嬰が御者を務める馬車にのって逃げていたのですが、項羽のあまりの恐ろしさに恐慌状態になっていた劉邦は、車を軽くするため息子と娘を馬車から投げ落としました。
ですが夏侯嬰がそのたびに車を止めて二人を拾い上げてしまうのでついに根負けしてしまったという話です。
たぶんryotin2006さんは、この二つの話を混同されているのではないでしょうか?
伝統的に親殺しは重罪で子殺しの罪は軽かったようです。
古代中国では人殺しを裁くのは遺族の役割で、親殺しの場合は仇を討つ人がいなかったので、秦の時代に「親殺しは死刑」と言う法律ができました。これが中国で最初に明文化された死刑です。
しかい、子殺しの場合は長い間罰則がありませんでした。
中国の子殺しの風習は現在も続いていて、数十年前の飢饉のときに子供を他の家の子供と交換し、両家でそれぞれの子供を食べたと言う記録もありますし、女の子が生まれたら間引きする風習は現在も行われていますし、清朝時代の男女の比率は3:1くらいだった省もありました。
女の子の命が軽く見られていたのはもちろんですが、男の子の場合も伯仲叔李と言う序列や張三李四と言う言葉もあって、三男、四男などはどうでもよかったのです。
ちなみに逃走のときに子供を投げ捨てたのは漢の劉邦ですね。
いざと言うときに本能的に家族の盾となる日本人と違って、中国人の男は家族を残して自分だけ逃げます。
厳格な儒教の世界では、目上(年長者、支配者)の存在は絶対的ですから、
親と子では全く立場が異なります。
子供は喜んで親の犠牲になるのが当たり前で、その逆はあり得ません。
(もちろんこれは学問上の理屈に基づく倫理観であって、
一般人の親子の感情はまた別だと思いますが。)
したがって親の子殺しはそれなりの事情があれば許されますが、
子が親を殺せば人非人として極刑にされます。
劉備のエピソードが実際にあったかどうかは分かりませんが、
少なくとも当時の人はそれを何とも思わなかっただろう、と思います。
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