2012年3月11日日曜日

三國志について質問です 『正史三国志』では覇王・曹操が主役として描かれている...

三國志について質問です



『正史三国志』では覇王・曹操が主役として描かれていると聞きました。ではなぜ『三国志演義』になったら劉備が主役になったのでしょうか?
。よく『曹操は史上最悪の魔王・劉備は史上最高の仁徳者』と聞きますが、それは歴史上で本当にそうなのでしょうか?。

教えてください







陳寿のいわゆる正史『三国志』において、魏を正統な王朝として扱っていることは周知の事実でしょう。

(主役と言うのは語弊がありそうですが)

これは、皇帝は一人しかいてはならない、

天命を受けた皇帝(天子)は天下にただ一人という考えが根本にありますから、三国時代というのは

異常事態ということになるわけです。

3人もの皇帝が存在したということは、容認できない事態です。

となれば、正統なる皇帝と、偽者の皇帝が存在したことになります。

陳寿の立場は、魏を継いだ晋の史家として三国時代をまとめねばならず、魏を正統としなければ

ならなかったのです。

歴史の推移からみても、後漢の皇帝から禅譲を受けたのは魏の文帝であり、そこから禅譲されたのが

晋の武帝なわけですから、当然魏が正統な王朝となります。

ただ、陳寿はもともと蜀の出身であり、公平な史観をもった人物だったため、

蜀に対しても、呉に対してもある程度公平な筆で歴史記録をまとめました。

これが史書としての『三国志』の評価されるところです。

しかし、表面上は劉備は蜀の前主であり、正統なる天子としては表現されていないことから、

魏の皇帝のみが正しい天子として扱われていることが分かります。

この観念が大きく変化せざるを得なくなるのは、五胡十六国時代から南北朝時代にかけてです。

華北を北方異民族に奪われ、江南に逼塞した漢民族の王朝は、まるで蜀漢のような立場に立たされました。

そこに登場したのが東晋の習鑿歯です。

彼の打ち出した、蜀漢正当論は、東晋の置かれている立場の裏返しというものでした。

三国時代の正統なる王朝は蜀であり、魏は簒奪者であるという理屈は、

実力では五胡に及ばないが、血統による正統性しか打ち出せない東晋そのものでした。

東晋時代でも諸葛亮は尊敬を受ける人物でしたし(弱小の東晋において忠義に熱い宰相は理想的な人物だった)

東晋の位置的な問題で、北伐によって華北の勢力を妥当しなければならない状況は、まさに蜀漢と瓜二つだったわけです。

例えば、曹操の実力主義を認めることは、血統主義の貴族社会である東晋の根幹からすれ)認めがたいものです。

そもそも、実力主義を認めれば、漢民族は野蛮な遊牧民に屈服しなければなりません。

この時代の感覚が後の時代に影響を与えないはずがありません。

正史『三国志』の解釈より、蜀漢を正統とする観念は士大夫はもとより、講談などのかたちで庶民にも広まっていきました。

宋代には講談師が街中で三国志を物語れば、子どもたちは劉備が勝つと喜び、曹操が勝つと悔しがったという

エピソードが物語るような状況になったのです。

それが、明代に小説の形に纏められたのが『三国志演義』です。

その過程で、曹操の悪役化、劉備の前任化が進んでいったわけです。

予断ですが、実際の劉備は人徳とは程遠い胡散臭い人物で、似非君子ずらしている演義のキャラクターより

よほど魅力的な人物なのですが・・・(長くなるので略)








正史では後漢→魏→西晋の流れが正統とされているためです。

演義では大衆芸能の要素が強いため、悲劇的な色合いの強い蜀がメインとなったのだろうと思います。また、一介の”わらじ売り”が紆余曲折を経て地方政権とはいえ一国の皇帝となった劉備に対して庶民の思いが投影されたためであると思います。である以上、”劉備は史上最高の仁徳者”であり、そのライバルである曹操は悪役となったのだと言えます。『曹操は史上最悪の魔王・劉備は史上最高の仁徳者』と聞かれているようですが、実際いわれているのはそこまで極端ではありません。曹操においては乱世を治めるべくして力を奮った英雄であると思います。でなければ、あれほどまでの人材が集うべくもないと思います。一方の劉備はそこまでの人徳者とはいえない様に思います。さきに述べたように庶民の思いが投影されることによって美化されたのが実際の所であり、また、諸葛亮の存在によって増幅されたのであろうと考えます。

0 件のコメント:

コメントを投稿