劉備に対する評価について
僕の友達に三国志にすごく詳しい奴がいるんですが彼がいうには劉備玄徳という人は文武両道に秀でていたといっていましたが本当ですか?
劉備は卑怯者で戦争負けてばかりで逃げ回って運がいいばかりだと思っていましたがそんなことを言われて驚きました。
次が彼のいう劉備の優れている点です。(長くてすみません)
①曹操、孫堅は元々家柄も財産も血縁関係も恵まれていたが劉備は何も持っていなかったが三国の一国を持った。(黄巾の乱から漢滅亡までただ一人生き残った)
②同じ姓の劉表、劉璋は劉備よりも環境が恵まれていたにもかかわらず何もできずに潰れていったので劉という姓はたいして武器ではなかった。
③野心の塊で人の道に反するとこや汚いことを平気でやってるにもかかわらず人柄に惚れられ有能な人物が寄ってきて野心を一切悟られることがなかった。
④かなりの戦略家で負け戦は戦略的だった。(わざと負けて致命的になる前に見切りをつけ戦略眼を培っていった)また、勝率も孫策に次ぐくらいで大事な戦には必ず勝利し戦争も実はかなり上手い。
⑤有力な人物に従軍したり、警戒されないようにするしぐさ、口の旨さ、主君への見切りのつけ方や人物の見極める能力は尋常じゃない。
⑥体つきに恵まれ武勇はかなりセンスがある。(一番修羅場を潜った人間なのにすさまじい生命力。しかも曹操のように専属の護衛をつけていない)
⑦故事成語の髀肉之嘆は裏を返せばアスリートや挌闘家の使うような言葉で戦前に出て行き実際馬に乗ったり戦っていたからこそいう台詞。
⑧関羽や張飛は武勇のプライドが高かったからそれで心酔するということはもちろん劉備も強いはず。
以上です。
頭のよさは諸葛亮クラス(一方ではかなり優っている)戦略は孫策クラスだそうです。
正直自分もなるほどなぁと思いましたが。
本当の所どうなんですか?
あとこんなこといってました。
ミーハーは孔明、曹操、周瑜ばかりをすごいと好むが玄人が評価するのは劉備、司馬懿、張コウだそうです。
これについてはどうですか?張コウはかなり意外でしたが。
私は劉備が三国志の中でも1,2を争うほど好きですから多少贔屓目に書いてしまいますからご了承を。やはり劉備に惹かれる理由はなんと言ってもその人柄です。その人柄の良さで関羽、張飛、趙雲は心酔して忠義を尽くしました。相当魅力ある人物だったようです。実力の曹操や孫権と違い劉備は人柄の良さで皇帝となったといってもいいでしょうね。
私も質問者さんとおなじく劉備をあまり評価しておりません。
曹操を評価していますので、贔屓目に見ての回答ととられるかもしれませんが、中立に立ったつもりで回答させて頂きます。
①家柄 曹操、孫権については確かに先代からの引継ぎという点では有利なように思われますが、有利なのはせいぜい財産くらいであったのではないでしょうか。劉備はもともと侠客だったようですので、中央の政権での家柄の曹家、武家の家柄の孫家は財政的に有利であったと思います。
②劉姓 劉備は本当かどうか判らないが、”中山晴王劉勝の末裔”という三国志主要人物のなかでもっとも大きな看板を掲げています。姓をもっとも優効に使用しています。
③人柄にほれられたのは劉備のもっとも優れている点だと思っています。彼のように何もない時点から人をひきつけまた、つなぎとめておくことが出来たのは特筆するべきところであると思います。
しかし曹操、孫権陣営はともに地盤ありきで始まっていますが、曹操にしてみても強大な実力を持ったことになった”青州兵”を組み入れることは誰にでも出来ることではないと思います。孫権にしてみても、諸将はほとんど地方豪族の寄り集まりで、結束を固めるのに苦労していたでしょうが、結果としては一大勢力としてまとまっていたようです。
④戦略家 結果として、劉備自体はそれほどたいした戦略家ではないと思います。大事な戦とはどの戦のことをさしているのか分かりませんが、たいして勝ち戦を行ったという気は私は持っておりません。三国志の流れで序盤の地方の黄巾賊との戦いでは少しかじった兵書が優効に働いたのでしょうが、晩年はほとんどといっていいほどの悪い戦績です。
⑤人物を見極める能力 有力な人物に従軍したのは、軍費はないが勢力は保ちたいということで、食い扶持を確保する為に付き従っていたと思います。また、警戒されないようにするしぐさは雷を怖がったとかですかね。それは実際に怖がっていたのかもしれません。物語では雷が近くに落ちたみたいですし。そして主君への見切りの付けかた、主君とは誰のことかがわかりませんが、従軍していた有力な人物のことを言っているのであれば、ただ単に自軍にメリットがなくなったとき(メリットよりデメリットがおおきくなったとき)に離れていったに過ぎません。曹操陣営から離れるときには、曹操から高く評価されていることに気付きこのままでは自分の思ったように行動するのに色々な監視的な目で見られ、漁夫の利をとられかねないからでしょう。
⑥体つきに恵まれ… 体格は曹操に比べるとかなり勝っていたでしょう。曹操自体は背も低かったため、肉弾戦ではかなり劉備と比べると不利な点は否めません。しかし、実際の戦争では、大将は最前線にでて采配する、ということをしないと、戦闘にならない部隊である為、そうせざるおえなかったのでしょう。そういった意味で三人の中では一番修羅場をくぐっているということは紛れもない事実であると思います。そして、専属の護衛はつけていないとのことですが、実際には、どこに行くにも関羽、張飛か趙雲をつれて歩いていたのでは?三顧の礼にも関羽、張飛が動向しており、庵で寝ている間まっていた劉備に対し寝ている孔明に腹をたてたシーンがあったのでは?
⑦ これも⑥の内容とかぶりますが、劉備陣営の人材の無さがなせる技であると思います。しかし、どの人物も(固有名詞が出る人物)ほぼ馬に乗って移動しますし、曹操に於いては黄巾の乱平定時には騎都慰として馬上にて軍を指揮して戦っていました。
⑧関羽、張飛が最初に出会ったのが劉備であったことが最大の要因であると思います。 張飛はまず曹操に出会い、手厚く迎えられたら間違いなく曹操の典韋になったと思いますし、関羽においても曹操と苦労を共にして過ごせば誰にでも同じ付き合いが出来る人物であると思います。
私は玄人ではありませんが、張郃は大好きな人物の一人です。他の方も書いておられますが、張郃は夏候淵なきあと、混乱した大群が張郃一人いることで静まる。すごいことです。また、”いずれは張飛か張郃か”なんていう言葉もあったような無かったような。
ご友人の意見はおおむね当たっていると思いますが、
大事な物が一つ抜けていると思います。
私は劉備の最大の長所は、
「雑多な部下をまとめるカリスマ性」だと思います。
劉備の部下は張飛・関羽の様な旗揚げ時代からの宿将に加え、
流浪時代に仲間になった趙雲に糜竺などの徐州時代からの家臣、
孔明・魏延などの荊州時代からの部下、
さらには黄権や法正などの益州系の家臣団など、
出自がみんなバラバラです。
曹操は自分の曹一族と親類の夏侯一族を中心にした家臣団を持っていました、
また孫親子も、周瑜・黄蓋・張昭などと言った代々の譜代の家臣を持ち、
血縁や代々の家臣と言う事で、これを統率するのは比較的容易だったと思います。
しかし劉備の部下や家臣は言い方を悪くすれば、
あっちこっちから拾い集めてきた連中であり、
言ってみれば流れ者の集団、
コレを統率するには並大抵の器では勤まらないと思います。
普通のリーダーなら古参の関羽や張飛と、
新参の孔明や魏延などの間で内紛が起きそうです。
しかしそんな事実は全くありませんでした、
それどころか、あれだけ負け続けているのに、殆ど家臣の離反が無いと言うのも、
やはり劉備のリーダーシップというか人間的魅力の点で、
どんなに苦境でも部下がついていったのかと推測できます。
これが後世に語られる劉備の「徳」なのでしょうね。
そして残念ながら劉備の死後、蜀では重臣の李厳が、
孔明に嫉妬して職務を放棄したり、魏延と揚儀が内紛を起こすなど、
溜まった膿が噴き出す様に人間関係のもつれが多発します。
劉備がまだ生きていたらこういう問題も上手くまとめられたかも知れませんが…
劉備は兵法や実務能力の面では曹操に及ばないかも知れませんが、
くせ者揃いの部下をまとめると言う統率力の面では、
曹操より遥かに上だったのでは無いかと思います。
あと張コウの件ですが、全然意外ではありません。
演義では猪突猛進のちょっと思慮が足りない武将として書かれていますが、
史実の張コウは、知略と武勇に長けた名将で、皇帝の信頼も厚く、
魏軍では司馬懿に唯一比肩する人材として評価されてました。
彼が戦死したのは、その才能を恐れた司馬懿が彼を消す為に、
わざと無茶な追撃を命じたからとも言われています。
そのような噂が流れるくらい張コウの評価は高かったんです。
彼の死後、魏の朝廷ではその死を皇帝以下、みんなが惜しんだと伝われています。
最後のやつですが
張コウは全然意外じゃないです。
②ですが、劉という性は大義名分(劉勝の末裔らしい)
としてずいぶん役に立ったと思います。
それに劉氏だったから劉表と劉璋に近ずくことができたん
だと思います。
最初の質問は武にはそれなりに秀でていたと思いますが、
文に秀でていたとゆうのは聞いたことないです。
その友人の言うことはおおむね合っています
まず劉備は若い頃は任侠の世界にいました
当然、腕っぷしには自信があり、しかも日本のヤクザと違い中国の侠客は民衆から人気があり、正義の味方を自認していた侠客や山賊からは絶大な信頼を得ていたようです
劉備がしたことは当時の中国では日常茶飯事なことが多く、我々が思うほどの「悪事」ではなかったようです
美化しすぎですが、劉備が非常に優れた「英傑的」人物であったのは事実。ただし彼の特技は、具体的な能力ではありません。
幽州に劉一族が住んでいたんですが、劉備は父も祖父も早世したため、一族からは没落した存在でした。そういう点では、徒手空拳で起った・・・というのもあながち間違いじゃありません。
曹操は祖父が宦官筆頭の大長秋で、相当な財産を溜め込んでいます。父は息子に箔をつけるため、大金を出してわずか半年ほどの名目的な軍務大臣職に就任しています。挙兵時はほとんど、ポケットマネーで兵を集めていたくらいですから、馬商人に寄付してもらった劉備よりはるかに有利。孝廉(親孝行で廉潔、と地元の長老が朝廷に推薦する制度)にも合格し、地方官を歴任していましたし、曹操は劉備よりスタートはすごく有利。
同じような境遇の孫堅は、物心つくまで父がいたし、それも地方官でした。さらに地方の小反乱を片付けて勇名も上げている実績があり、劉備より少し有利。
それだけに、三国の一角を占めたのは、よくやった・・・と思います。
能力もない、地位もない劉備にとって「仁徳者」の看板は大切なものだった・・・だから、彼はそれを非常に気にしていた。いつも頭にあって、こういうことをすると、世間はどう思うだろう・・・と常に考えていました。
しかし、どうも最近、劉備を変に悪く言いたがる人を見かけますが、少なくともはっきりとした悪徳行動はとっていませんよ。だから彼は、個人の好き嫌いは別にしても、正史でも演義でも評価されているのです。(頭が凝り固まっている人には、言っても無駄ですがね・・・)
劉備が評判を気にしないなら、蜀攻略に2年も掛けていません。評判を落とさないために、1年は様子を見ていたのです。
曹操の息子・曹ヒに笑われるくらいですから、戦略戦術はうまくない。逆に「だから自分には、アドバイザーが絶対必要だ・・・」と思い、見つけたら三顧の礼でも何でも獲得に動いたのです。己の限界と、自分自身を冷静に客観的に見られる人でした・・・。
劉備はともかく、能力のなさを誠意と根性で切り抜けなきゃならないんです。そのために指揮官筆頭のような、パフォーマンスも要る。無理をしてても、「俺はお前たちを使い捨てにはしないぞ」というアピールが必要だったのです。
彼の偉いところは、それを一生徹底したこと。事件が起こったとき、「俺は寝てないんだ!」と報道陣に噛み付いた馬鹿社長とエライ違いです。
その一方で、実は人物鑑定は非常にシビア。
他人に助けてもらっている以上、乗るみこしを間違うと破滅するからですね。
孔明に「馬ショクは口先だけで、ああいう人物を重職につけてはならぬ・・・」と遺言したのは、劉備の凄みでしょうね。のち孔明は「先帝の言われたとおりだった・・・」と嘆くことになるのです。
実能力の曹操と、カリスマの劉備。
お互い持っていないものを持っている、だから曹操は「この世で英雄は君と俺だ」といったのです。一世代下の孫権は、あまり意識がない、「三国志」はこの二人の争いだった・・・といえるかもしれません。
まぁ、戦略眼と言うか戦術眼ですね、劉備が優れているのは。ただ、曹操と孫権
とのスタートラインはあまり変わらないです。曹操は最初に雇用した兵達に反乱を
起こされたり、孫堅は武官上がり、と言うことから時の名士達に軽んじられたりして
います。両者ともスタートラインではかなり苦労しているのです。
負け戦ではわざと負けて、と言うのはちょっと言いすぎですね。単純に戦力不足が
原因です。まぁ確かに負け戦、と見切りをつけて逃走する手並みは見事なので、
そう言う意味で機を見るに敏であったと言えます。
曹操との比較ですが、曹操は劉備のことを「自分と同じことを思いつくヤツ、ただし
思いつくのが俺よりも遅い」と評しています。つまり曹操よりはやや劣るが、策略にも
長けた人物であったことが伺えます。
武将としての総合力は曹操、曹仁、陸遜と言った一流にやや劣るぐらいで蜀国内
でもトップクラスの実力があったと考えられます。人を見る目があったことから人使い
が非常にうまい、将に将たるタイプでしょうか。
張コウは演義の影響で猪武者と捉えられることもありますが、実際は文武兼備の
相当に優秀な人物です。武将としては西涼方面の馬超達が反乱した時の実質的
な前線指揮官としてその全てを勝ち抜いています。対蜀戦線で一度張飛に敗れて
いますが、この時は住民を移住させると言う別の目的が張コウにはあり、それを行な
いながら40日以上も張飛達を食い止めていのです。そしてその間に住民の移住は
きっちりと行なっております。
漢中攻防戦でも劉備は張コウのことを「一番の大物」と警戒しています。事実夏侯淵
が亡くなり動揺していた魏軍ですが、張コウが代理の都督となり、彼が的確な指示を
行なったことでたちまち軍中の動揺は収まりました。また夏侯淵を倒して勢いに乗りたい
蜀軍をうまくいなし、膠着状態に持ち込んだのも彼の手腕によります。
劉備亡き後諸葛亮が北伐を行いますが最初の頃は張コウに食い止められ、諸葛亮
以下蜀軍全てが彼を恐れ憚った、とあります。張コウは変化の法則に優れ、地形や
策略をうまく利用し、相手の弱点を突く戦い方を得意としていました。
また夏侯淵が奇襲などを得意としていたのに対し、彼は奇襲も持久戦も自在に行ない、
蜀軍の兵站問題を見抜く一方、伏兵がいる恐れがあるから追撃することの危険性を
指摘したりするなど、戦術眼は諸葛亮や司馬懿以上であったと言えます。
また同郷の優秀な人物を学者として推薦する等、当時の武将としては非常に珍しい
こともやっています。彼の字も古典中の単語から取られたものであり、相当教養豊かな
人物でもありました。
劉備を驚嘆させる程勇猛でありながら、知略に優れ戦術家としても一流、尚且つ教養
豊かな人物。軍事面では魏で一番曹操に近い存在、と言ってもいい位の人物です。
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