2012年3月29日木曜日

三国志大戦3デッキ診断お願いします。 R袁紹 SR朱儁 R孫堅 R劉備 C鄭泰 軍師...

三国志大戦3デッキ診断お願いします。

R袁紹

SR朱儁

R孫堅

R劉備

C鄭泰

軍師:田豊

何か変えた方がいいとことかあったらお願いします。








袁紹だと最大士気が下がってしまうので

R袁紹→SR皇甫嵩

の方がいいと思います。








袁紹は使い所を間違わなければ強いですからそのままがいいです。可能ならテイタイ→R貂蝉がいいでしょう。最大士気の下がる分、呂布などの単体超絶対策は必須です。騎馬単なら孫堅1人で何とでもなります。

軍師は郭図がいいと思いますよ。最大士気が下がるので転進はコンセプトに合わない感じです。漢号令→増援→漢号令を狙うのも楽しいですよ。

三国志の武将・文官だったら誰が好きですか?それぞれ一人お願いします といって...

三国志の武将・文官だったら誰が好きですか?それぞれ一人お願いします



といっても劉備や夏候惇、周瑜といったメジャーな人物はきっとたくさんの方が好きなので、
マイナーな答えをよろしくお願いします!!







マイナーなのかどうかはわかりませんが、武官では張嶷、文官では司馬朗が好きです。



張嶷

張嶷の死により多くの異民族の多くが涙を流し廟を建てたり、劉禅が張嶷の別れの言葉に感動し、張嶷のために涙を流したりと張嶷の魅力に関する話が好き。また、張嶷は人物の鑑識眼に優れていたため、費禕の暗殺や、諸葛恪の失敗を予言し的中させている。張嶷の山賊や異民族を撃退した武勇も好きだが、張嶷の人物の鑑識眼の凄さはかなり好き。





司馬朗

孫権の征伐に従軍したが、そこで疫病による風邪が蔓延し、司馬朗を含む多くの兵士が風邪をこじらせた。そこで司馬朗は兵士達に薬を全て分け与えたが、司馬朗は薬を飲まなかったため死んだ。司馬朗は兗州刺史として領民に善政を敷いていたため、司馬朗の死を聞いた兗州の人々の多くが涙を流した。など、司馬朗の魅力に関する話が好き。また、司馬朗は司馬懿の才能を高く評価し、逆に司馬懿は司馬朗の人格者としての面を評価したりと司馬兄弟の関係も好き。








マイナーだと思いますけど

張紹この人父が暴れん坊で有名なあの張飛なのですが

この人は文官でこのなんかえ--感なんかすきです



武将では呂布ですでもあの裏切りを続けたあの有名な呂布

では無くて実は正史に関羽が魏を攻めた時に配下の武将にある町を攻めさせたという記述があって

で別の列伝には同じ時期同じ町に攻めてきた呂布の軍を攻めて打ち破ったという記述があります

でもおかしいたしか呂布はその何年も前に死んでいますだから関羽の配下の武将に呂布と同姓同名の武将が

いたのではと言う説がありなんか関羽に仕える呂布と考えるとおもしろくて好きです







では、こんな方々を。



武官・霍峻(仲邈)かくしゅん:ちゅうばく 元劉表配下。後継者劉琮が曹操に無条件降伏した際、劉備に帰順。益州攻略の時、葭萌城の守備を任される。ここは非常に重要な拠点の上、北に張魯、南には攻略中の劉璋と極めて危険な拠点を僅か数百の手勢で守りきる。これにより、梓潼太守、裨将軍を歴任。その3年後死亡。劉備は酷く悲しみ、酹(らい)という立派なお葬式をしてあげた。息子の霍弋(紹先){かくよく:しょうせん}も立派な人物。



文官・趙儼(伯然)ちょうげん:はくぜん 荀彧の推挙で仕官。潁川の辺りで于禁、楽進、張遼が駐屯中に仲の悪い3人のパイプ役を見事に果たす。荊州出兵の際、張遼、張郃、李典、于禁、朱霊など名立たる武将の統括に当たった。樊城の戦いで関羽の囲みを徐晃と共に退けたなどすごい功労者。晩年、三公のひとつ司空になる。こんなにすごい人なのに、某歴史シュミレーションゲームシリーズに1度も登場しない。、、、名前が難しいからか?



私の大好きな武将たちです。







武将では・・・

蜀の寥化、周倉

賊徒あがりでも忠実な武将として戦い抜いた人物。



徐州の陳登

刺身が好物だったとか。

三国志演義の最後は史実と同じですか??漫画の方しか読んでませんが、同じなら劉...

三国志演義の最後は史実と同じですか??漫画の方しか読んでませんが、同じなら劉備が善とするなら何故最後は曹操を倒す話で終わらせなかったんでしょうか???

途中から孔明にバトンタッチしますが、そこからでも魏を倒しての痛快娯楽大作でも良かったんでは???







歴史小説というものについてからお話しします。

どんな歴史小説も、作者の想像が入ります。

実際に、どういう場面でどういう会話がなされたか、などは文献で残っていないからです。

そういう点では、歴史資料を元にした創作小説といえます。



ただ、創作だからといって、歴史と違うものを書いてしまうと、それは歴史小説としては亜種になります。

歴史小説家の醍醐味は、事実として確定している歴史の中で、登場人物達がどういう生き方をしていったのか、その生き様を描くことにあります。だから、歴史通りに劉備は亡くなり、孔明がその跡を継いだのです。



また、そういった指摘したような歴史物は存在します。歴史if物などと呼ばれたりします。

ifは「もしも……」という意味で、「もしも、劉備が生きていたら……」など、作者のオリジナル設定で話が進められます。

ちなみに「反三国志演義」という物語は、劉備、孔明のいる蜀が三国を統一するという物語です。

三国志演義の最後は史実と同じですか??漫画の方しか読んでませんが、同じなら劉...

三国志演義の最後は史実と同じですか??漫画の方しか読んでませんが、同じなら劉備が善とするなら何故最後は曹操を倒す話で終わらせなかったんでしょうか???

途中から孔明にバトンタッチしますが、そこからでも魏を倒しての痛快娯楽大作でも良かったんでは???







歴史小説というものについてからお話しします。

どんな歴史小説も、作者の想像が入ります。

実際に、どういう場面でどういう会話がなされたか、などは文献で残っていないからです。

そういう点では、歴史資料を元にした創作小説といえます。



ただ、創作だからといって、歴史と違うものを書いてしまうと、それは歴史小説としては亜種になります。

歴史小説家の醍醐味は、事実として確定している歴史の中で、登場人物達がどういう生き方をしていったのか、その生き様を描くことにあります。だから、歴史通りに劉備は亡くなり、孔明がその跡を継いだのです。



また、そういった指摘したような歴史物は存在します。歴史if物などと呼ばれたりします。

ifは「もしも……」という意味で、「もしも、劉備が生きていたら……」など、作者のオリジナル設定で話が進められます。

ちなみに「反三国志演義」という物語は、劉備、孔明のいる蜀が三国を統一するという物語です。

三国志8 三國志Ⅷの質問なのですが、玉璽はどうすれば手に入るのでしょうか。 攻略...

三国志8

三國志Ⅷの質問なのですが、玉璽はどうすれば手に入るのでしょうか。

攻略サイトを見ても情報がなく困っています。








189か190年でのシナリオで董卓以外のキャラでプレイしていると洛陽を支配するとイベントで手に入ります。



191年からなら孫堅・192~3年からなら孫策・194~199年からなら袁術

212~5年からなら張魯・221~2年からなら劉備が玉璽を持っています。



アイテムリストを埋めたいだけならこれらの武将で始めるのが楽です。

普通に手に入れたいなら持ってる武将をは処刑にするなり、アイテムを没収するなりで手に入れれば良いです。

持ってるキャラは魅力100なので武将リストを見ればすぐわかりますよ。

なんか他にもイベントで手に入ったような気がしますが覚えてない・・・・。

ちょいといい加減ですが、お役に立てれば幸いです。

何故劉備の家計は漢室の末裔なのに農民まで落ちぶれたのですか?祖先が何か悪いこ...

何故劉備の家計は漢室の末裔なのに農民まで落ちぶれたのですか?祖先が何か悪いことをしたのでしょうか?







劉備の祖とされるのは前漢の6代景帝の子で、7代武帝の兄弟にあたる中山王・劉勝とされています。

武帝と劉勝の兄弟には、他にも後漢の光武帝の祖である劉発や、三國時代の劉璋や劉表の祖となった魯王・劉余などがいて、のちの三國時代を知る身としては非常に興味深いです。



さて正史『三國志』蜀書先主伝(劉備の列伝)には、劉勝の子の劉貞がタク郡の陸城亭侯に封ぜられたが、酎祭の献上金不足で侯位を失い、そのまま住み着いた…とあります。

ただし『漢書』の表によれば、劉貞は中山国陸成県の陸成侯として封ぜられており、恐らく『三國志』の方が誤りであろうと言われています。



酎祭とは正月から8月までかけて造る酒を宗廟(先祖の霊をまつる場所)にささげる祭祀で、諸侯には金銭負担の義務があったそうです。



中山王・劉勝は120人以上の子(一説には孫を含めた数字)がいたと言われますが、それから250年以上も経った三國時代に正確な記録が残っているとも思えず、またそんなに年代を隔てた子孫が「皇族」と呼べるのかも疑問です。

さらに『漢書』と『三國志』との相違とを考えてみても、劉貞の子孫がタク郡にいる必然性がなく、劉備の血筋は詐称と断定してしまってもほとんど差し支えないかと思われます。

(確かに冀州中山国と幽州タク郡は隣接してはいますが)



つまり劉備が農民(というか庶民)の出身である事はなんら矛盾がなく、それでいて「中山王の末裔」と言われても何となく納得できてしまう。

その程度の話なのです。

別に落ちぶれた訳でも何でもありません。








中山靖王劉勝(景帝八男)は色を好んだとされ、120人にものぼる子供がいたといれます。

その中でも劉備の先祖の劉貞は庶子とされており、身分はかなり低かったようです。

彼はそれでも劉備の出身地の涿郡涿県の列侯(領主)となったが、年貢を朝廷に納めずクビになりました。

以降のことはよくわかっていませんが、劉備はこの劉貞の子孫でも傍系だったといわれます。

それでも劉備の父は州郡の官吏だったのですが若くして亡くなり、幼い劉備と母はムシロ売りにまで落ちぶれたといいます。

そんな状態でありながら劉備は、叔父の劉元起の援助で盧植に学んでいますがら本家はそこそこ裕福だったのでしょう。

盧植は高名な学者で後に政治家や将軍として活躍しましたが涿郡の人だったので劉備でも学べたわけです。







劉備は何も悪いことはしていません。



劉備は中山靖王劉勝の子孫とされています。漢の宗室にその出生記録を残しているから間違いなくそうでしょうが、ただ、一説には劉勝は子だくさんで100人以上いるとされ、その子供からさらに数代下っているため、劉備の代になると万を越す血縁者がいるとことになります。その中には王侯になる者もいれば、農民として生きる者もいるでしょう。劉備の家は農民として生きただけのことです。



まあ、通常の考え方であれば、幾ら兄弟(従兄弟)が増えるとは言え、王侯となり領地を貰える筈ですが、前漢の文帝、景帝、武帝の三代が同姓王の中央への影響力を抑えるために、『推恩令』(正確には武帝の時ですが、文帝や景帝も同じことをやっていました)なるものを制定し推し進めた結果、同姓王の領地が限りなく縮小されることになりました。



『推恩令』とは、王侯の位を嫡子が継承し、残りの子には同一領地から一県或いは一郷の領地を分け与えられる、というものです。王侯家の子孫に必ず領地を貰える利点はあるものの、嫡子以外の子供は、親王から郡王、県主、郷主と代を追うごとに格下げされ、領地も細分化されてきました。しまいには領国自体も取り潰され郡県となり、これより中央集権国家が完成された、という訳です。



なので、劉備の代にもなると、領地すらなく農民などの副業をやらないと生きてはいけない状況になっているだけのことです。







劉備の300年くらい前の先祖に景帝の第八子の劉勝と言う人物がいて、劉勝は50人以上、一説には100人以上の子供を作ったと言われています。

そして劉勝→劉貞→劉昴→劉禄→劉恋→劉英→劉健→劉哀→劉憲→劉舒→劉誼→劉必→劉達→劉不疑→劉恵→劉雄→劉弘→劉備と続くうちに子孫の数は増え続け、劉備の代になると劉氏の血をひく者は1万人近くいたのではないかと思われます。(家系は三国志演義のものなので信憑性はありません)

1万人もいれば農民になるものがいても不思議ではありませんし、劉氏の血を引いていると言っても全然大したことはなかったのです。

三国志で総合して傑出していた人物は。

三国志で総合して傑出していた人物は。

悪いけど曹操しかいないでしょう。武力だけなら呂布かもしれませんが。

劉備、諸葛亮、曹ヒ、叡父子、或いは司馬懿、師、昭父子を合わせたような人物かもしれません。

言い換えれば、一人で彼らのしていたことを何でも出来た、と見ることができます。



孫策も周喩も、孫権もかすんでしまいます。

後半に登場する鍾会、董某もです。彼らは司馬家政権で蜀に攻め込みますが、曹操をどう思ってたんですかね。

何もかも出来るけど、厄介でえばりくさった嫌なやつと見てたんでしょうか。

どうも司馬家は曹操があまり好きではないように見えるのですが、どう思いますか。



ひょっとすると、曹操以外に、ヒや叡も嫌いだったのかもしれませんね。







曹操がいなければ、中国の歴史も変わっていたかもし、日本の歴史にも影響があったかもしれないですね。

先日もBS系テレビで曹操の存在(?)も見直されていると、言ってたような…








私の勝手な意見なのですが、『三国志演技』であらゆる面

(武力・知力・統率力等)で傑出していた人物は、曹操と

孫堅が双璧だと思っております。



孫堅が早く亡くなってしまったので、やはり曹操が一番

優れた人物となるでしょう!







超マイナーですが士燮なんてどうでしょう。



曹操は確かに傑物と思います。



司馬家の件ですけど。



少なくとも司馬懿の司馬防は曹操好きでも嫌いでもなかったと思います。

曹操に最初に官職を斡旋したのは司馬防ですから。



司馬懿は曹操を嫌っていたと思います。

司馬懿は人の心を読むのが得意だったと言われています。

だから、自分が曹操に仕えたら、自分をいずれ疎むと思っていたとかもしれません。



事実、曹操は脅迫までして仕官させておきながら、疎むようになりました。

曹操は死の間際で曹ヒに司馬懿に気をつけろと言ったくらいです。



針の筵のような環境で日々を送っていた司馬懿が曹操に好感を抱くわけがないと思います。